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概要

マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)はフランス国王ルイ16世王妃である。

ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。

略歴

18世紀後半のブルボン朝フランス王国王妃オーストリア帝国ハプスブルク家の出身。

母はハプスブルク家、オーストリアの女帝マリア・テレジア、父は神聖ローマ皇帝フランツ1世(ロレーヌ公フランソワ3世)で、その第15子(16人兄弟)として愛されて育った。

母マリア・テレジアの仕掛けた外交革命により、1770年に当時フランス王太子であったルイ16世結婚

1789年のフランス革命を経て1792年に失脚。37歳で1793年10月16日に刑死、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。

身長154cm、B109cm~90cm、W60cm~48cm、H90cm、足のサイズは23.5cm。

好きな色は、ブルー・グレー。

前歴

父フランツ1世は、神聖ローマ皇帝にとって家臣に過ぎないロートリンゲン公(フランス読みでロレーヌ公)という身分であった。しかし母マリア・テレジアは、フランツに一目ぼれし、父カール6世を説得して結婚した。この結婚には、「当世の皇帝は女であり、その妻は、なんと男である」とまで皮肉られた。

フランツは底抜けに明るく、根っからの遊び人だったが、テレジアもそんな彼の魅力にひかれ、カール6世や周囲の人々も最初はフランツを嫌っていたが彼の人柄に心を変えた。マリー・アントワネットは、この父親の気質を、そっくりそのまま受け継いで生まれたとテレジアは手紙に残している。

ただ、遊び人気質とは言っても、フランツは小国出身の苦労人で、貧困国であったトスカナ公国の立て直しを任された際には自らは倹約して金を殖産興業と民政の改善に充てて、黒字財政化と民衆の生活水準の向上の成果が出るまで自身の道楽を棚上げして待つ忍耐力も財政健全化を成功させる行政手腕も兼ね備えていた。また、現在のウィーン自然史博物館の基礎を築くなど、自然科学的な見識においても卓越しており、当時のオーストリア貴族からは遊びと見られていた科学を統治に活用する応用力も有った。

マリー・アントワネットも父と同じく他国に嫁ぎ、最初は敵意をもって迎え入れられたが、人間的魅力により周囲から愛される所までは似ていたが、革命という逆らい難い時代の流れは人柄ではどうすることもできず、その命を断頭台で終える事になった。

父の特長であった忍耐力や民政手腕、科学的思考等の長所は受け継がれず、「貧困地域の財政健全化」と言う実力を発揮出来る仕事を与えられた父と比べても目に見える成果を出せる権限を与えられなかったのも不幸と言える

誕生・幼少期

1755年11月2日、マリー・アントワネットはオーストリアのホーブブルク宮殿で誕生した。以下、アントワネットと表記する。

3歳年上の姉マリア・カロリーナ(第13子)と一緒に育ったが、彼女たちの姉マリア・ヨーゼファ(第12子)が急死したため、カロリーナが代わりにナポリ大公フェルディナント4世と結婚することが決まった。仲の良かった二人は、別れることに非常にショックを受けたという。

余談であるが、カロリーナは夫に代わってナポリ、シチリアの政治に積極的に参加し、軍事や女性の社会進出など革新的な運動を推進し、フランス革命にも市民側に同情していたほど近代的な考えを持つ母親譲りの政治家だった。(実際、母であるマリア・テレジアも自分に最もよく似た子であるとカロリーナを評している)

もしカロリーナがフランス王妃になっていれば歴史は変わっていたという意見もあるが、最愛の妹夫妻が処刑されると夫を動かしてフランスに軍を進めている。

1762年10月13日、ウィーンにある皇帝の夏の住まいシェーンブルン宮殿で7歳のアントワネットは、モーツァルトに出会い、彼から求婚されたという微笑ましいエピソードが知られている。

オペラの革新者として音楽史に名を残し、テレジアから宮廷楽長に任命されたクリストフ・ウィリバルト・グルックから音楽の教育を受けた。彼も1773年にはアントワネットに従い、パリに移住している。

アントワネットは、グルックからハープ、ハープシコード、フルート、声楽など音楽一通りを習った。後に作曲した楽譜を残すだけのことはあり、当時は自分で作曲した曲は自分で弾けなければならなかったが、アントワネットは相当な技量に達しており、特にスピネット(小型チェンバロ)は姫の手習いの域を超えているとグルッグに絶賛されている。また、ダンスも優雅であった。音楽的な才能に恵まれていたといえる。

一方でフランス語、イタリア語、ドイツ語などの識字教育は10歳になっても満足なレベルにならなかったようである。

フランス王太子妃に

漫画『ベルサイユのばら』でも王太子妃となっているが、15世から見て16世は孫なので正確には王太孫妃となる。

オーストリアは新興国家プロイセンにより、シュレージエンを奪われた。同じくフランスも第2次百年戦争と呼ばれる対イギリス戦争に直面していた。

そこでテレジアは、続く七年戦争(1754年または1756年~1763年)に先駆け、フランスとの婚姻同盟を画策する。これは長年、敵対していたフランスと神聖ローマ帝国が同盟を結ぶという歴史の転換点になる大事件だった。

余談だが、七年戦争は墺仏の敗北、英普の勝利に終わった。この戦争は世界各地に植民地を持つ太陽の沈まぬ国イギリスにとってアメリカ、アフリカ、インドなど世界各地を舞台にした巨大な戦闘となり、勝利を収めたイギリスは、名実ともに世界最大の帝国として認知されるようになる。

しかし結果として、この戦争により長年欧州で続いていた反ハプスブルク家・オーストリア包囲網は解体され、逆に各国はイギリスを敵視し、イギリスは日英同盟が結ばれるまで同盟国が一つもない栄光ある孤立に陥ることとなった。

これは後のアメリカ独立戦争、そして何よりもフランス革命の遠因となる出来事であり、或いはこの時点で既にマリーの運命というものは決定づけられていたのかもしれない。

七年戦争後、墺仏は和平を決定的にするため、1770年2月7日にアントワネットとルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との婚姻を正式に合意した。

4月19日、聖アウグスティーナ教会において14歳のアントワネットは、16世の代理人と結婚式を挙げた。代理人を務めたのは兄フェルディナント(第14子、四男)である。

余談だが、両親と弟で皇帝フランツ・ヨーゼフも聖アウグスティーナ教会で結婚式を挙げている。

もともとハプスブルク家が作った宮廷教会であるためハプスブルク家の人間が使用することの多い教会なのだが、皮肉なことにオーストリア帝国を滅ぼしたナポレオン・ボナパルトとフランス王妃マリー・ルイーズの結婚も、ここで挙げられている。

アントワネットは、5月14日にコンピエーニュで夫16世と対面した。5月16日にはヴェルサイユ宮殿で結婚式が行われ、夫婦がベッドに入る所まで見届けられたが七年間、夫婦に子供は生まれなかった。

1773年6月8日、18歳でパリを公式に初訪問した。

ヴェルサイユ宮殿で生活するアントワネットを悩ませたのは、国王ルイ15世の愛人デュ・バリー夫人であった。国王の寵愛を受け、政治的な影響力さえ持っていた。

1770年の墺仏同盟を進めたフランスの筆頭大臣エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵もデュ・バリー夫人によって失脚している。ただしこれは、オーストリアとの同盟が気に入らないというより、15世の前の愛人ポンパドゥール夫人がショワズールを引き立てていた事への腹いせ、ショワズールがデュ・バリー夫人を敵視していた事への報復でもあった。

アントワネットは影響力を強めるため、国王15世の娘、つまり16世の叔母たちと親交を強め、デュ・バリー夫人に対抗したが、これが対立を激化させる結果になった。ついにフランス側から「オーストリアの利益を損ねる」と通告を受けたテレジアがオーストリア外交官クロード・メルシー・アルジャントゥー(メルシー伯)を通じ、アントワネットにデュ・バリー夫人と和解するよう勅命が下った。

こうしてデュ・バリー夫人の留飲は下がったものの、15世が天然痘で倒れると1774年5月9日には宮廷から追放された。

余談だが、漫画『ベルサイユのばら』では、その後、ポン・トー・ダム修道院で物悲しく暮らしたような解説を受けているが、この後も娼婦として大勢の貴族と親交を深め、裕福な暮らしを続けている。1776年10月頃には追放処分も解かれ、修道院からルーヴシエンヌに移っている。しかしヴェルサイユ宮殿に戻ることは許されなかった。

また大臣ショワズールを解任した理由として15世は、彼が進めた七年戦争やオーストリアとの同盟が失敗であり、莫大な借金をフランスに押し付けるオーストリアの陰謀に加担したと見做したためである。この負債こそ、アントワネットと16世を処刑台に追いやる遠因ともなった。

王妃に

1774年5月10日、15世の死によって16世が正式に国王に即位した。アントワネットも王太子妃から王妃になったのである。

即位した16世は失脚していたショワズールを復職させようとしたが、失敗している。

対してアントワネットは、リシュリュー陸軍元帥(第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ。14世の宰相として有名なリシュリュー枢機卿の大甥)を退けた。彼はポンパドゥール夫人の死後、15世の愛人としてデュ・バリー夫人を推薦した人物である。しかしアントワネットも私怨でリシュリュー元帥を解雇させた訳ではなく、16世との考えの違い、これまでの外交や七年戦争での失敗などの理由もある。

次にジャン・フレデリック・モールパ伯爵を首席大臣に登用した。彼はリシュリュー元帥によって失脚していた。

またシャルル・ヴェルジェンヌ伯を外交大臣に任命させた。彼はショワズールに代わって外交に充てられており、昇格であった。

リシュリュー元帥の失脚、モールパ伯爵の首席大臣への登用は、アントワネットの意趣返しとも周囲には見えなくもなかった。またヴェルジェンヌは、フランスがイギリスやロシアに海外進出で大きく出遅れていることを知りながら、七年戦争での復讐を企み、アメリカ独立戦争にフランスを参戦させてしまう。

モールパ伯爵は、フランスの将来の展望として海軍力の拡大の必要性を考えていた。これは間違っていないものの、莫大な負債を抱えたフランスには元から無理な政策だった。

結果として国王夫妻が打ち出した新しい政策は、フランスを取り巻く外交問題に取り組むという目論見は正しかったものの、当の大臣たちは、更なる出費を続けてしまった。

1774年5月24日、16世は小トリアノン宮殿(プチ・トリアノン離宮)をアントワネットに与えた。

これは15世がポンパドゥール夫人のために作らせたが完成時には、既に夫人が死去していた。アントワネットは離宮を改装し、壁にダイヤモンドを埋め込んでいると噂されるほどだった。

また婦人服職人ローザ・ベルタンに豪華な服を作らせた。当時、フランス国内のウール、シルクなどの織物産業を保護するため1759年に国王の命令で輸入品を扱うことは禁止された。これはイギリスが世界中の植民地からあらゆる資源を集め、国内の工場で作る安価な製品を輸出し、他国の産業を壊滅させていたためであったが、アントワネットはフランス国内の織物では満足できず、これらを取り寄せさせた。

このようにアントワネットの贅沢は、単に贅沢である以上に法を破る行為があったために国民の敵意を煽った。

ポンパドゥール夫人、デュ・バリー夫人と国王の愛人が権勢を誇ったヴェルサイユ宮殿では、次の王妃アントワネットと親交を結ぼうという人々が大勢、彼女に近づいた。特にアントワネットと親しくなったのがランバル公妃マリー・ルイーズとヨランダ・ポリニャック公爵夫人である。

ランバル公妃は、アントワネットの信用を得て宮廷女中長に任命された。しかしアントワネットは、1775年に鏡の間でポリニャック夫人と出会うと金銭的援助と夫の就職を世話すると約束した。しかもアントワネットの一番のお気に入りは、ポリニャック夫人に取って代わられてしまう。

ヴェルサイユ宮殿のファッションリーダーとしてもアントワネットが知られるようにドレスや帽子に新しいデザインを取り入れたが、これは古い習慣を好む人々からは反感を買った。またアントワネットの好みに追従するには、貴族たちの財産は追いつかなかった。さらに週2回の演奏会を3回に増やし、ヴェルサイユ宮殿ではオペラや演劇が開かれないためにパリに夜遊びに出ては朝まで帰らなかった。

挙句、プチ・トリアノンに篭り、自分の気に入った貴族しか離宮に近づけず、宮廷の慣例を無視した生活を続けた。こういった振る舞いは、フランス貴族たちの反感を買った。

母に

1777年4月18日、シャトー・デ・ラ・ドゥ・ラ・ミュエットに兄の神聖ローマ皇帝フランツ・ヨーゼフ2世が来訪した。フランスにおけるアントワネットの悪い噂は、オーストリアにも届いていた。もともと長年の敵でもあるフランスにいる妹を心配しての”お忍び”だった。

アントワネットは、兄に夫婦の悩みを相談し、兄フランツ2世は、率直な回答を与えた。アントワネットは、兄の助言に従い16世に包茎手術を受けるように進言したと言われている。

真実がどうであったか不明だが、1778年4月にはアントワネットの初めての妊娠が公式に布告された。1778年12月19日、夫婦の第1子、長女マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスが誕生した。

7年もの間、子供の無かった夫婦の初めての出産に喜ぶ人々もいた一方、16世の子供ではないという疑惑が沸き起こった。アントワネットの愛人として有名なスウェーデン貴族、アクセル・フォン・フェルゼンは国外退去命令を受けている。

また同時期、バイエルン王位を巡ってプロイセンとオーストリアの戦争が再燃した。アントワネットの働きにより、フランスの仲裁が働きかけられ、1779年5月13日に和平が締結され、オーストリアは領土を獲得している。しかしフランスの貴族、平民を問わず、この仲裁はフランスがオーストリアに屈服したと見做され、オーストリア同盟自体に憎悪が高まった。

1779年7月初め、アントワネットは母への手紙で流産したと書いているが、これは生理不順を勘違いしたと考えられている。

1780年11月29日、母テレジアが死去した。兄フランツ2世は、フランスとの同盟を強固なまま保つという声明を発表した。1781年7月にフランツ2世は再び、今回は公式にフランスを訪問した。だが、人々はこの同盟でフランスがオーストリアに利用されていると捉えており、一層、アントワネットに対する憎悪、オーストリアへの敵意を強めた。

1781年3月に次の妊娠が確認され、10月22日に第2子で長男、フランスの王太子ルイ・ジョセフが誕生した。フランス王室に好意的な人々でさえ、後継者を産んだことだけがアントワネットの功績なら、他の出費が余りに巨大過ぎると考えるまでになっていた。

16世は、アメリカ独立戦争(1775年~1783年)に参戦した。この間のアントワネットの動きは派閥争いにあり、自分と親しい軍人や政治家を後押しした。

1783年、アントワネットの働きでシャルル・ド・カロンヌが財務大臣、ポリニャック夫人の友人オーギュスト・ル・トネリエが内務大臣に就任したとされている。財務と宮廷、両方の大臣を影響下に収めたアントワネットの権力は16世の後押しも合わせ、揺ぎ無い物となった。

開明的な政治思想を持たないアントワネットは、平民の登用に否定的であったと言われる。これも事実がどうであれ、軍隊や役所で平民出身者の不満が続出した。

1783年頃、プチ・トリアノン離宮にアントワネットは、農村に見立てた小集落「王妃の村里(ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ)」を作らせた。これは豪奢な趣味に飽きた貴族たちが田舎風の建築を作るというものだったが、そこに放たれた動物は清潔に保たれた。

また大量の蔵書を集めて図書館を開設し、芸術や科学の後援を行った。これも当時の貴婦人なら誰もが行っているサロン活動を真似たものだったがアントワネットの場合、かかった費用が他とは異なっていた。

科学の実験として彼女は、熱気球を打ち上げたとされている。

また、ハンカチを現在の正方形に統一したのも彼女である。

1784年10月24日、サン=クルー城(シャトー・ド・サン・クルー)を16世に購入させた。この事件も国民を失望させた。

余談だが、この城をナポレオンも使用している。

罪人に

アントワネットは、オーストリアとオランダの間で起こったやかん戦争(1784年10月8日、ケトル戦争とも)でもフランスに仲裁を働きかけた。しかしアントワネットは、王太子誕生やアメリカ独立戦争においてオーストリアを味方に着け、イギリスに大打撃を与えたことで自分の活躍がフランス国民の不満を解消していると考えた。

アントワネットが自分に自信を強めるにつれ、彼女が寵愛するポリニャック夫人への投資は俄然、増加し、裁判所は国王夫妻への糾弾を強めていた。それでも夫妻は、ポリニャック夫人を信用していたようである。

アントワネットへの民衆の敵意は、もはや形のある物になり、新聞などに彼女が同性愛者ではないかというゴシップが飛び交った。

1783年6月頃に妊娠が確認されたが、アントワネットは11月2日に2度目の流産を迎えている。

1785年3月27日に第3子で次男のルイ・シャルルが誕生したが、国民は9ヶ月前にフェルゼンが戻って来たというニュースを覚えており、すぐさま非難した。16世は自分が生物学上の父親であると信じ、このような醜聞を抑えようとした。

1786年7月29日に最後の娘、マリー・ソフィー・ベアトリックスが誕生したが、彼女は生後11ヶ月足らずで夭逝している。

子供が生まれるまでは夜遊び、ギャンブルに熱中したアントワネットだが、母親になるのを切っ掛けに子供の養育と政治への関心を強めていった。また16世も未曽有の国難に際し、アントワネットに更なる活躍を期待した。

だが、皮肉なことにアントワネットが政治に深く関わるほど、国民は反オーストリア感情と彼女への憎悪を結合させ、彼女に不利な取り方をするようになっていった。

1787年2月22日、裁判所の要請により160年ぶりに三部会が開かれた。新税の制定を巡って議会が集められたが、アントワネットが出席しなかったことが反感を買った。

アントワネットが推した二人の大臣のうち、ヴェルジェンヌは既に死んでいたため、16世は財務大臣カロンヌを更迭した。変わってエティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌが財務大臣、のちに首相となった。しかし裁判所と議会を治めることができず、1788年に辞任し、イタリアに亡命、枢機卿になっている。

これ以上、裁判所と対立し、新税が認められなければ政治改革に着手できない国王夫妻は、パリ高等法院を追放した。だが、これによって余計に政治は混乱を深めていく。

1787年8月頃からアントワネットは、遊び好きの外国人女王というイメージを払拭するべく育児に励む母という宣伝活動を開始した。ところが首飾り事件でアントワネットを中傷し、投獄されていたジャンヌ・ド・ヴァロワ・サン・レミが脱獄し、再び女王の悪評を流した。

庶民と権力者という構図から民衆はジャンヌのことをアントワネットに利用された悲劇のヒロインと信じていたため彼女の脱獄は、アントワネットへの反感と首飾り事件を思い出させる効果を発揮した。

挙句、1789年6月4日に王太子ルイ・ジョセフが結核で夭逝した(これに伴い、次男のルイ・シャルルが王太子となる。)。この事は夫妻に計り知れない悲しみを与え、立ち直る機会も与えぬまま、テニスコートの誓いが発生する。

これは貴族、聖職者、平民の三部会では特権階級の利益が守られるだけであり、平民だけの議会が政治を行うことを宣言した。

処刑台へ

1789年7月14日、バスティーユ監獄が襲撃された。警備兵も少ない老朽化したパリ市内の牢獄には、武器が保管されており、市民たちは武装し、武力によって国王夫妻に対処しようとした。

1789年10月5日、ヴェルサイユ行進(十月事件)が発生した。16世が後のフランス国旗、三色旗(トリコロール)を踏みにじり、市民軍、人権宣言や特権階級の廃止を宣言した国民議会を拒絶したことが原因とされる。あるいは王位簒奪を企むオルレアン公の陰謀ともいわれた。

しかし革命神話に信じられているほど、この事件は劇的なものではなく、それまでに何度となくヴェルサイユ宮殿への抗議運動は発生していた。今回は宮殿の警備が弱体化し、暴徒の数がこれまで以上に膨れ上がったためである。

群衆は、近衛兵を殺害するほど暴徒化していたものの、国王夫妻を見ると「国王万歳!」、「王妃万歳!」と応じた。国王夫妻は群衆に拘束され、パリのテュイルリー宮殿、後にタンプル塔に移送された。

国民議会の意見も一致せず、1791年9月4日に憲法君主制を採択し、ルイ16世を改めて君主としての地位を認めた。これは王室に対する忠誠心だけでなく、16世が支援したアメリカ合衆国が国王夫妻に並々ならぬ好意を持っていたことも影響した。何よりオーストリアだけでなくアントワネットの姉たちが嫁いだ国々を敵に回すことは、死に体のフランスにさらに釘を刺すような自殺行為といえた。さらに言えば貴族、僧侶たちを説得するためには国王夫妻の極力は不可欠であり、フランスそのものが分裂する危険も孕んでいた。

16世は落胆していたが、アントワネットは諦めていなかった。国民議会の自由主義者ミラボーと接触し、なんとか国民との和解を模索した。ミラボーは、外交上の権威、交戦権などを国王に取り戻すように提案し、16世も僧侶の数を減らし、教皇の影響力を取り除くなど国民議会に協力した。次第に議会も国王に拒否権を認め、幾つかの法律を見合わせる等、着地点が見え始めていた。

しかしこれらの試みは、1791年4月にミラボーが死亡したことで終結した。

国王夫妻に反感を持つ人々は、アントワネットがレズビアンであるとか、息子との近親相姦、浮気、莫大な浪費などを繰り返し流して敵意を煽った。しかしどれも裏付けがなく、目新しいニュースもないまま人々にも飽きられ始めた。

それでも最後の頼みといえるミラボーの死により、国王夫妻の恐怖は限界に達し、反革命勢力や外国の協力を受けようという意見に達した。そして遂にアントワネットの愛人フェルゼンを頼りに1791年6月21日、ヴァレンヌ逃亡事件が発生した。

亡命は失敗し、国王夫妻はパリに戻された。

9月3日、アントワネットの友人だったランバル公妃は、群衆に殴り殺され、首が斬り落とされた。切られた首は『アントワネットの部屋に投げ込まれた』『槍の穂先に串刺しにして、アントワネットの部屋の窓の外に掲げて彼女に見せた』という都市伝説があるが、アントワネットは彼女の首を見てはいない。しかしランバル公妃の死を聞いてアントワネットは気絶したと言われている。

1792年9月21日、立憲君主制は廃止され、16世は犯罪者となった。12月には家族と引き離され、1793年1月21日、ルイ16世の処刑が執行された。

寡婦となったアントワネットの処遇について国民議会は意見が百出した。残されたルイ・シャルル(後のルイ17世)の養育を任せるという意見もあったが、国民議会は王太子を再教育するという方針を打ち出し、母親から取り上げるべきだという結論に達した。

また16世の罪は「国王であったこと」とされたが、アントワネットの罪は下記に列挙する

  • 敵の利益のための情報活動
  • 安全保障に対する妨害
  • 近親相姦
  • 国庫を枯渇させた罪
  • 宮殿で乱交パーティを行った罪

などあったが最終的には「オーストリアに対する利敵行為」となっている。つまり世間で信じられている通説に反し、彼女が贅沢をしたために死刑になった訳ではなく、敵国のスパイであったことが罪状になった。

しかし処罰内容に対する意見もあった。殺すのでなくフランスの捕虜として拘束する、あるいはオーストリアに身代金を要求する等の案も検討された。トマス・ペインはアメリカへの追放を提案したが、これは開放も同然のため却下された。

最終的に1793年4月にロベスピエールが公安委員会のリーダーに就任し、スパイとして死刑にする方針で進め、1793年10月14日、アントワネットの裁判を開廷させた。

1793年10月16日午後12時15分、16世と同じくリヨン広場(コンコルド広場)でギロチンにより処刑された。最後の言葉は処刑人の足を踏んだ後に「Je ne l'ai pas faitexprès(わざとじゃないのよ)」と言われている。

遺体は名無しの屍としてマドレーヌ墓地に埋葬されたが、1815年1月21日、ルイ18世の復古王朝により捜索が行われた。発見は困難と思われたが、実は彼女を埋葬した人物が隠れ王党派で、目印としてその上に木を植えていたことから無事に遺骸が発見される。直ちにしめやかな葬儀が行われ、夫16世と共に歴代フランス王が眠るサン・ドニ大聖堂に改葬された。

総評

政略結婚で嫁ぎ、フランスの財政を傾け、革命を引き起こした稀代の悪女と言われることが多いが近年、夫のルイ16世と同様に、その評価が正しかったものではないと言われる。

まずフランス王家の財政を傾けた直接の原因はルイ14世、15世が行っていた戦争であり、彼女の裁量が許されていたのは国家予算の僅か7~6%にあたる王家の予算、その更に一部だった。

しかし無類の浪費家賭博好きだったこと、一部の寵臣のみを偏愛し、宮廷の習慣を無視し、不要な反発を招き、ヴェルサイユの品位の低下させたことは事実である。

次に国王夫婦に全ての罪がある訳ではなく大臣たちにも非がある。女帝マリア・テレジアの血を引くだけあって、特にフランス革命の混乱期に母親顔負けの辣腕を発揮した。しかし多くの貴族が命惜しさに亡命し、革命での徹底した名誉毀損によって王妃らしい彼女の勇姿は隠匿され続けたため、判明したのは本当に最近のことである。

もっとも彼女の活躍が報じられたとしてもオーストリアの為に働きかけているという疑いは、それまでの経歴から避けようもないのだが…。

彼女は何でも新しい物好きだったが、政治思想は保守的であった。王権は神から与えられた権利と信じており、貴族と庶民は大きく隔たった存在と捉えていた。何より国民がどれほど飢えようと決して困ることのない世界一の大金持ちハプスブルク家の出身であること自体が飢えた人々には憎悪の対象であった。

全てが終わった現代ほどではないにしろ彼女が全ての人間に嫌われていた訳ではなかった。

彼女の処刑後もギロチンの前で物怖じしない姿勢に王妃の誇り高さを感じ、なお好意的な意見もあったほどでヴェルサイユ行進後や国王夫妻への忠誠が完全に失われたヴァレンヌ事件の後でさえ、死刑だけは回避しようという意見が根強くあった。ロベスピエールの開廷した裁判でも代理人や弁護士が死刑だけは回避するように努めている。

そもそも浪費やギャンブル、任命権の乱用、離宮に篭る、あるいは証拠もない浮気やレズビアン、近親相姦が事実であっても死刑にできないことは過激派も重々、知っていた。

そこで理由になったのがオーストリアに対する利益誘導、フランスの安全保障を脅かしたという罪状である。これらの根拠はアントワネットと行動したオーストリア大使メルシー伯が本国とやり取りしていた事とアントワネットが母親や兄に出した手紙とされた。また何度となくオーストリアと他国の戦争に仲裁を働きかけたことが挙げられる。しかしアントワネットにしてみればフランスを攻め滅ぼす悪意など毛頭なく、どれもオーストリアとの同盟を維持するために必要な外交だったのである。

総評するに彼女を処刑したのは民衆の憎悪ではなく、独裁者ロベスピエールの独断だったのではないだろうか。

(国王の死刑判決は、国民議会の投票結果であるから)

一方では、彼女やルイ16世達の最期の最後まで毅然とした態度を崩さなかった姿が、逆にロベスピエール率いるジャコバン派を中心とした革命の過激派分子の琴線を更に刺激する事となり、憎き貴族達に一泡吹かせたいという執心が、やがて狂気となり、後の恐怖政治へと繋がったのではないかという意見もある。

また、王太子妃時代の因縁のライバルだったデュ・バリー夫人もアントワネット処刑から2ヶ月後の1793年12月7日に同じ処刑台に立たされる事となったが、ギロチンの前に立たされた彼女は泣き喚き、集まった民衆や知人であった死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンに命乞いをするなどアントワネットと対照的な姿勢を晒し、見ていた観衆達さえも思わず同情してしまう程に見苦しい最期だったそうな。その為、女性画家ルブラン夫人は彼女とアントワネットの最期を比較し、「国王様や王妃様、他の貴族の皆さんが彼女(デュ・バリー夫人)程に誇り高くなく、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったら、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたはず」と評し、死刑執行人サンソンも「(ルイ16世、アントワネットら)みんながデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」と評している。

あの言葉について

彼女が言っちゃったとされる余りにも有名な言葉――

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

…であるが、実際には彼女が生まれる前に別の人物が言った言葉であり、彼女が語ったものではない、自伝の発売時期ですらマリーは当時9歳である。

由来とされるのは、ジャン=ジャック・ルソーが著した彼の自伝『告白(フランス語版)』の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが『家臣からの農民にはパンがありませんとの発言に対してそれならブリオッシュを食べればよいとさる大公夫人が答えた』ことを思い出したとあり、有力な原典の一つとされている。

更に、指す「パン」の方がブリオッシュ(超高級な「パンの王」とされるもの)、お菓子(媒体によってはケーキ)は菓子パン等の安価に作成できる非常食等を指しているとされることもあり、その場合寧ろ「食料が足りないならこの際貴賤問わず非常食でもなんでも腹に入れるべきではないか?」という意味の発言が時代の変化で上記のセリフと合わさり「事態の深刻さを何ひとつ理解していない暗愚の台詞」として混同されてしまったのでは?という説もある。

こうした事実は、約200年を過ぎた東洋の島国でも徐々に知られてきており、彼女への評価・認識も改められつつあるが、中には未だに

「○○がなければ××すればいいじゃない(まりぃ)」

といった感じでネタにする者もいる。マリーカワイソス

ちなみに中国西晋時代の皇帝司馬衷は、「穀物がないのならば、肉粥を食べればいい」

という非常に似た言葉を残している。彼は暗愚として有名であり、更に彼の皇后である賈南風は、中国版マリー・アントワネットみたいな人物である。

余談

  • 懐中時計の愛好家でもあった。1783年、当時既にフランス屈指の時計メーカーであった「ブレゲ」社に使者を遣わせる("王妃の熱烈な賛美者"を自称する人物だったという説も)。そして後世「時計の歴史を200年早めた」と評される天才時計技師アブラアム=ルイ・ブレゲに対して「納期と費用に制約をつけず、複雑機構をすべて盛り込んだ最高の懐中時計を作って欲しい」と依頼、ブレゲは制作を開始した。
    • 時・15分・分を音で伝える"ミニッツリピーター"や閏年にも対応した"自動巻きカレンダー"など当時としては画期的な最新機構がいくつも搭載され、ケースは純金製、また文字盤もホーロー製とクリスタル製の二種類が用意され、特に後者ではその内部構造をつぶさに観察することが可能であった。
    • ブレゲ本人の死後も、彼の弟子たちがその仕事を引き継ぎ、遂に1827年、ブレゲNo.160「マリー・アントワネット」は完成した。――顧客であったアントワネットの注文から44年後、そしてその処刑から34年後のことであった。
    • その後、懐中時計は様々な人々の手を渡り歩いた末、1983年にイスラエルエルサレムの美術館から盗まれ行方不明となるが、2007年に再発見されて現在も同国に保管されている。また会社に残されていた資料を基に、2004年からレプリカ時計"No.1160"が制作され、2008年に完成した。これを収めた化粧箱は、かつてアントワネットが愛し、しかし老化によって切り倒されたヴェルサイユ宮殿のオークの木を材料にしたとされる。
  • 絶世の美女として有名だが、一方で「ハプスブルク家の顎」と呼ばれる特徴も備えていたという説がある(ハプスブルク家は何代も近親結婚を繰り返したため、下唇が歪に突き出ている者が多い)。写真などない時代である以上、どちらが真相は不明である。
    • 美人説の根拠は、母マリア・テレジアが美人であったこと、数多の美しい肖像画、そして無遠慮な市民たちも「春の香りのような美人」と絶賛していたことが挙げられる。
    • 不美人説の根拠は、写実的とされる胸像や処刑寸前に描かれた醜いスケッチが挙げられる。他にも家庭教師が「美形ではないかもしれないが、誰もが好きにならずには居られない」と評したことがあり、これによれば類稀なる愛嬌と美しい所作のため、顔まで美しく見えたということになる。
    • 一方、体型に関しては文句なく絶世であった。バスト109cmウエスト58cmという美の女神のようなスタイルをしており、フランスの美容界において常に頂点に立ち続けていた。
  • フランスで入浴がメジャーでなかった当時、珍しく風呂好きとされたが、これは香水で体臭を誤魔化すのが嫌いだったためで香水を湯船にドバドバ流して入っていたという。また、時にはお湯の代わりに温めたワインシャンパンを湯船に満たして入るというとんでもなく贅沢な入浴もしていたらしい。
    • 革命後、タンブル塔に幽閉されても塔の上まで湯を運ばせた。また国民議会から部屋の四方に監視役を立てるという命令が下っても仕切りを立てて入浴するほど風呂に拘っていた。
    • 彼女がフランスに嫁入りした年に生まれたナポレオン・ボナパルトの世代になると入浴はフランスでもかなり普及しており、彼はに「夫婦の営みの前に入浴せずに汗臭くしておいて欲しい」と頼み込んでいる。
  • 何より、このようなワガママが通用する程、押しが強い、もとい人間的な魅力の持ち主だった。
  • 肌が白ければ白いほど良いとされたフランスでは着けボクロが流行した。黒い物を着けることで対比で肌を白く見せる訳だが、アントワネットは明らかにそれと分かるほど大量に着けたり、星型などの不自然な着けボクロをわざと使い、新しいファッションとして確立した。
  • 子供が生まれるまでギャンブルに熱中し、日本円で億単位は散財した。ただし、娘が産まれてからは「母親が博打で大金をスるのは恥ずかしい」と考えを改め、キッパリと足を洗っている。
  • 国民に対する関心が無かったと言う訳でもなく、不作が起こった際には貴族達から義援金を募り、率先して被災地救援の為に献金している。夫が救荒作物であるジャガイモの普及を勧めようとした際には、ファッションにジャガイモの花を取り入れる、自ら食べる等広報活動の面で協力している
  • 慣例により、フランスの貴婦人は毎年30着ほどドレスを作るがアントワネットは170着ぐらい作らせた。
    • 頭の上、髪の中に壺を入れるという現代から見ても奇抜なファッションを発明した。またドレスに入っているフープ(外枠)が邪魔だという理由で外し、動き易いドレスを作らせた。
  • お菓子、地名に名前を残している。代表的なのはクグロフ、ビスキュイ・グラッセ・アントワネット(アントワネットの冷菓)など。
  • またタンプル塔に幽閉されたわずか1年で白髪になった逸話から、ストレスにより髪が白くなることをアントワネット症候群という。
  • 実は日本の漆器の熱烈なコレクターでもあった。初めての子であるマリー・テレーズを出産したとき、出産祝いとして母・マリア・テレジアから漆箱を送られている。
    • アントワネットがフランスに嫁いで来た頃、ロココ・シノワズリ文化がフランスの上流階級や貴族の間で流行っており、主に中国の陶器やお茶などを集める者が多くいた。(実際、古伊万里風に焼いたマイセンのココアカップがあったりする)
    • アントワネットはマリア・テレジア亡き後彼女の集めていた50点の漆器を受け継いだ他に、自身も漆器、蒔絵類を70点以上所持していた。
  • 意外?にも、彼女には男性関係で浮いた話がフェルゼン伯爵相手しかなかった。その証拠に、のちの国民議会の裁判にて、上記のようにレズビアンだという疑惑は出ても、フェルゼン以外の男性と関係を持ったという罪は出ていない。またそのフェルゼンにしても「親しくしていた」ことは確実であるものの、不貞行為は確認されていない。
    • 当時上流階級の婦人は愛人をもつのが嗜みの一つであったが、王妃の子宮は後継者を産む聖なるものと考えられていたので、王妃の場合愛人を作ることは御法度であった。
    • ルイ16世の弟であるアルトワ伯と一時期ゴシップが伝えられたが、アルトワ伯はアントワネット以上の軽薄で女好きな性格なので、すぐに収まった。

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悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした

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