概要
(ドイツ語: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837年12月24日 - 1898年9月10日)
ハプスブルク家末期皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」の愛称で呼ばれた絶世の美女。
皇后としてはエリーザベト・フォン・エスターライヒ。
1865年にヴィンターハルターが描いた、星をちりばめた真っ白なドレスに頭に花を飾った姿で描かれている「皇妃エリザベートの肖像」で最も有名。
息子ルドルフ皇太子の死後は暗殺されるまで喪服を脱がなかった。
その波瀾万丈の人生はミュージカルにもなった。⇒エリザベート(ミュージカル)
来歴
バイエルン王国ミュンヘン(現在のドイツ連邦バイエルン州ミュンヘン)にて産まれる。
父はバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフ、母はバイエルン王マクシミリアン1世の第7子ルドヴィカ。シシィは第4子(次女)にあたる。
両親はバイエルン王家の宗家と分家の結びつきを固めるために政略結婚された身であり、不仲だった。
しかし夫婦は夭折した子も含めて10人の子に恵まれる。
シシィは父を慕っており、父もまたシシィを可愛がっていた。
バイエルン王家でも傍系で女性という身から、父と旅行や狩猟に出かける等自由を満喫していた。
しかし姉ヘレーネに、オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(シシィの従兄にあたる)との縁談が持ち込まれ、転機が訪れる。
何とシシィはフランツ・ヨーゼフ1世に見初められ婚約、1854年4月に結婚した。
最初こそ喜んでいたシシィだが、勉強嫌いのシシィはお妃教育にすぐ音を上げた。
それでも共和制に関しては熱心に勉強していた様子。
ちなみに袖にされてしまったヘレーネだが、トゥルン・ウント・タクシス侯世子マクシミリアン・アントンと結婚、現代までその血を繋いでいる。
しかし皇后になったところで、姑であり伯母のゾフィー大公妃との仲は険悪だった。
規則やしきたりの多い宮廷生活にヒステリーを起こすシシィに呆れ、また独立運動を行っていたハンガリーやイタリアに対して同情的だったシシィを危険視し、様々な嫌がらせを行った。
遂にシシィは疲弊し、まるでウィーンから逃避するかのような生活を送るようになる。
1898年9月10日、スイスのジュネーヴにあるレマン湖の桟橋の上でルイジ・ルキーニにヤスリで刺殺された。享年60歳。
遺体はハプスブルク家が代々眠るカプツィーナー納骨堂に、夫と息子ルドルフと共に眠っている。
人物評
父マクシミリアンの気質を色濃く受け継いでおり、しきたりを嫌い、君主制に懐疑的だった。
上述したように勉強嫌いだったため、母ルドヴィカも悩んでいた様子。
ゾフィーからはフランツ・ヨーゼフ1世がシシィに感化されることを危惧されていた(但し当時はウィーン革命の直後であり、ハプスブルク家が本格的に没落の危機にあったことに留意されたし)。
しかしシシィの共和制への傾倒がオーストリア・ハンガリー帝国の樹立に繋がったこともまた確か。
現在でもハンガリーでは平和な独立国家の礎を作ったとして、慕われている。
一方で家族を放任する点についても父に似てしまい、皇太子ルドルフを孤独に追いやるきっかけを作ってしまう。
しかしルドルフの死はシシィを絶望させ、以降は喪服を脱ぐことはなかった(夫フランツ1世の死後、喪服を着用し続けたマリア・テレジアに倣ったとされる)。
身長172cm、体重43~47kg、ウエストは51cmとヨーロッパでも一二を争う美貌の持ち主だった(ちなみにもう一人の美貌の皇后は、ロマノフ家のマリア・フョードロヴナ)。
本人も己の美貌に自覚を持っており、過酷なスキン・ヘアケア、ダイエットに励んでいた。
食事はオレンジと卵、羊肉のスープ(というかブイヨン)のみ、ヘアケアには3時間かけ、少しでも体重が増加すると絶食した。
一方で甘いものが好きで、イタリアに訪問するとジェラートを大量に買って食べており、摂食障害を罹患していたとされる。
しかし過酷なダイエットは加齢によるシミ・皺を促進させ、写真撮影や肖像画の描画をひどく嫌うようになった。
そのため上述の肖像画はすべて20代の頃のものである。
また歯にコンプレックスを持っており、口をきつく結び扇で隠していた。
人の選り好みが激しく、比較的気質が似たルーマニア王妃エリザベタ(カルメン・シルヴァ名義で詩作をしていた)やバイエルン国王ルートヴィヒ2世(シシィの従甥)とは親しかった。
ところがルートヴィヒ2世に妹の一人ゾフィーを妻とのお見合いを断られたことがきっかけで絶縁してしまう。
そんなシシィだが、ルートヴィヒ2世が溺死したと聞いた時はショックを受け精神を病んでしまった。
尚、ゾフィーはヌムール公ルイと結婚したが、参加していたチャリティバザーの会場で発生した火災で亡くなった。
ちなみにヴィクトリア女王のことは苦手だったが、その息子のエドワード7世とは親しかったという。
上述の通りゾフィー大公妃とは不仲だったが、晩年は和解し、ゾフィー大公妃が危篤になった際は自ら看病を買って出た。
ゾフィー大公妃があまりにも厳格だったのもそうだが、シシィがあまりにも皇后として、そして母としての自覚がなさ過ぎたのも原因である。
僅か2歳の長女が赤痢により夭折したのも、シシィがハンガリーに同行させてしまったのが原因である(当時から乳幼児を同伴しての旅行は注意を払わねばならなかった)。
これを聞いたゾフィー大公妃は激怒、シシィから一時期親権を取り上げた。
ちなみに幼少期に慕っていた父親とは最終的に不仲になってしまった。
ハインリヒ・ハイネを敬愛しており、その造詣はとても深かった。