皇后
こうごう
古来のオオキミのキサキの最上位たる「オオキサキ」の漢訳として日本書紀から用いられている。
厳密には天皇の正妃という意味に加えて、皇后宮職という家政機関を得た人という意味も指す。
実際藤原得子のように、上皇の寵姫となった(つまり天皇の后ではなかった)人物に名誉称号としての「皇后」位が贈られることもあった。
また、藤原道長が娘藤原彰子を二人目の皇后として強引に入内させて以来、平安時代から江戸時代にかけて二人目の皇后を置いていた。
これには中宮職という家政機関を付けていたので、一人目の皇后と区別して中宮と呼んでいる。
中宮職とは、奈良時代律令制では全ての皇妃の世話をする役所を指したが、醍醐天皇の皇后に藤原穏子が立てられた時に中宮職は皇后の世話をする職務となり、中宮とは皇后の別称になっている。
道長はここに目をつけて、皇后宮職と中宮職、皇后と中宮を分離したのである。
令和元年5月現在の皇后は雅子。(旧姓小和田、 昭和38年<1963年>12月9日- )
巨大な後宮のなかの大勢いる美しい妃のなかでも、もっとも高い地位をもつ女性。
格式の高い家の生まれから選ばれることも多いが、前漢の成帝の皇后の趙飛燕のように卑賤の身から寵愛を受けて皇后となった者も少なくなく、その親族(外戚)と結合して権力を振るったことも多い。
一方で悲惨な運命を送った皇后も多く、北魏の子貴母死などの理不尽な風習で殺されることもあった。
また皇后が一人とは限らず、半ば強引な形とはいえ北周の宣帝は五人の皇后を立てた。
次代の皇帝が幼ない場合、先代の皇后が臨朝称制として権力を握ることもあり、北宋では宣仁皇后が行った。
他方で靖康の変で北宋が滅ぶと、徽宗の皇后・顕仁皇后や欽宗の皇后・仁懐皇后、高宗の皇后・憲節皇后や多くの妃とその娘は、異民族に強姦され、洗衣院という娼館に送られた。
唐では女性の権力が強く、則天武后(武則天)のように皇后から皇帝になるものもおり、玄宗の妃の楊貴妃のように寵愛を受け、国を傾けさせるものもあった。
明では外戚が権力を握らないように、民間の一般家庭から容姿の美しい者を選んだので、皇后の権力も小さくなった。
しかし清ではこの旧弊は復活し、末期には西太后が絶大な権力を握ることとなるのである。
()内は配偶者である皇帝・天皇。
欧州
テオドラ皇后(東ローマ帝国ユスティニアヌス朝・第2代ユスティニアヌス1世)
マリア・テレジア(神聖ローマ帝国ハプスブルク=ロートリンゲン朝・フランツ1世)
エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク=ロートリンゲン朝・フランツ・ヨーゼフ1世)