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概要編集

清朝の第6代皇帝「乾隆帝」の第二皇后

実姓は烏喇那拉(ウラナラ)または輝發那拉(ホイファナラ)とされている。


1733年に第5代皇帝「雍正帝」の第4子「弘暦」に側室として嫁ぐ。

弘暦が「乾隆帝」として即位してから2年後の1738年に「妃」の位を与えられ「嫻妃」となる。

富察皇后」の死後、皇太后の意向により皇后に立てられた。


1765年、皇帝の江南への行幸に同行するが、途中で北京に戻るように命じられる。

一説には満洲人の禁忌である断髪を行ったことが、皇帝および皇太后への呪詛と見做されたという。

帰京後も侍女を減らされるなど扱いは悪く、正式な廃后には至らなかったが皇后位を廃されたも同然の扱いを受けたとされる。

一年後の1766年に病死するが葬儀の規模も小さく、乾隆帝の裕陵ではなく側室の純恵皇貴妃の園寝に附葬され、諡号すら付けられなかった。


皇后という立場にありながら諡号が付けられなかったため、後の時代で語り継ぐべき公式名称が存在せず、乾隆帝の廟号「高宗」から「清の乾隆帝の皇后を継ぐ」を意味する「清高宗继皇后」が通称の一つとなっている。

判明している実姓の一部から「皇后那拉氏」とも呼ばれる。

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