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雍正帝

ようせいてい

清朝第5代の皇帝 治世13年と先帝より短かったが、清国全土の行政に皇帝が介入する政治・軍事体制を作り上げ、徹底した合理一本化政策を実施。〈内務皇帝〉
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概要編集

雍正帝

(ようせいてい・イロンチェン・ディ)

生没:1678年12月13日 - 1735年10月8日〈57歳〉

在位:1722年12月27日 - 1735年10月8日〈13年〉

清朝第5代の皇帝廟号は世宗。在位1722~1735。(13年)康熙帝(玄燁)の四男。

治世13年と先帝より短かったが。清国全土の行政に皇帝が介入する政治体制を作り上げ、徹底した合理化一本化軍事政策を実施した。


玉座から行政改革編集

熾烈な後継者争いに勝ち抜き、1722年に康煕帝の遺言により皇帝に即位した。

(長兄から三兄までは互いに後継者の座をめぐって潰し合い、父・康煕帝に疎まれるようになったため、四男且つ有能な雍正帝が後継者にのし上がったとされる)

雍正帝はさっそく行政改革に着手し、土地税と人頭税を一本化して税収を安定化させた。


非常に倹約家で宮廷の女官や宦官など使用人の数を数百人まで減らし、宮廷費用を抑え財政に余裕を持たせ減税をたびたび行った。

在位期間中は睡眠時間4時間で挑んだとされ、歴史上もっとも勤勉だった皇帝と評価されている。50代と比較的若く逝去したのも、この仕事中毒ともいえる生活で身体を壊したから、とも見做されている(老いてきた身体でも今までどおりの激務をしようと道教の怪しい薬に手を出したのも一因とされる)。


その反面、行政介入による治世は苛烈で、過失や失敗があれば近臣や清帝国皇族・弟分であっても極刑やそれに近い処罰をおこない恐怖政治にもたとえられた。特に帝位継承を巡って暗闘した事から有力な弟達や反抗的と見做した父帝時代からの重鎮に対しては容赦がなかった。

雍正帝自身は一度も戦争に赴くことはなかったが、将軍を派遣し青海・チベットを征服、外交にも積極的でロシア帝国とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定し、フランス王国・ヨーロッパ諸国などとも国家間関係を持った。


又、自身も後継者争いを経た事でその負の面を実感していた雍正帝は太子密建という制度を確立させた。皇帝が後継者を指名する遺言書をあらかじめ作った上で封印し(更新も随時可能)、皇帝の死去直後に公の場でこの封印を解くという後継者制度であった。この制度は常により有能な後継者をあらかじめ用意できること、後継者と皇帝の二重政権を防ぐこと、苛烈な後継者争いの発生を牽制できること(皇帝の不興を買い指名を外されかねない)などの利点があり、このおかげで清朝では以降も暗愚な皇帝が比較的、出現しなかったという。


雍正帝の趣味は意外にもコスプレ(仮装)であった。とはいえ、実際に着たというより、仙人、仏僧、歴史上の人物、民族服、洋装など様々な服を着た自身の肖像を描かせるというものだった。多忙を極める生活の中で、しばしの間だけでも違う事をしている自分を想像したかったのかもしれない。






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