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康熙帝

こうきてい

清朝四代皇帝で廟号は聖祖(中国の皇帝でただ一人の廟号)中華皇帝一の名君として有名。治世61年も歴史上の皇帝の中では最長。1654 - 1722〈68〉
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概要編集

康熙帝

(こうきてい・カンシー・ディ)

生没:1654年5月4日 - 1722年12月20日〈68歳〉

在位:1661年2月5日 - 1722年12月20日〈61年〉

清朝の第4代皇帝、諱は玄燁。廟号は聖祖(中華皇帝ただ一人の廟号)在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。


中国歴代最高の名君編集

順治帝の第3子として生まれ、順治帝早逝のあと8歳で即位。

当初はオボイ・スクサハ・ソニン・エビルンの四輔政大臣が治世を代行したが、14歳になった康熙帝が画策をねり四大臣を実力(クーデター)で更迭した。


若干14歳で皇帝親政を始め、1667年から皇帝自ら八旗軍を率い遠征を開始。

台湾満州モンゴル朝鮮チベットビルマ、シャム(タイ)、ベトナムに至るまで侵略、清帝国の版図を大幅に広げた。

明朝滅亡直後のシナ大陸(中原)進攻の時に功績があった漢人実力者の呉三桂などを筆頭とした三藩が康熙帝に対し反旗を翻すが(三藩の乱)、これも皇帝自ら兵を率いて鎮圧した。一方、明朝最後の皇帝・崇禎帝の遺児・朱慈煥が密かに庶民として生きていたのを密告されて逮捕された際は、反乱に担ぎ上げられる恐れがあると見做して処刑している。朱慈煥は既に70歳を超えていた老人で余りにも理不尽というべきで、康熙帝の治世での数少ない汚点となった。


61年間の長き治世に置いて文治に力を要れ〈康熙辞典〉やその他学術書を編纂させた。

しかし文化政策として文字の獄や満州人を非難する書物や人を弾圧、晩年は朱子学以外の教えを排斥した。

それでも太宗とともに中国歴代最高の名君とされ、清東陵に陵墓がある。

1722年崩御、享年68歳。


晩年は後継者問題に悩まされた。優秀且つ母親の身分も高かった次男を一時は皇太子にするも、やがて皇太子が増長し、権力を更に求め始めたために不和となり、廃嫡とした。これによって諸皇子は後継者の地位を巡って激しい暗闘を繰り広げ、その過程で長男と三男も脱落していった。死の間際に康熙帝は遺言書で四男(雍正帝)を指名したが、雍正帝の皇位継承を認めない皇子達は雍正帝の一派が遺言書から「十四男」の十を消したのだ、などと吹聴したという(十四男の胤禵は軍人として功績をあげていた。雍正帝の同母弟だが、雍正帝とは不仲であり、兄の即位後は幽閉された)。





その他編集

  • かなり質素な性格だった。学問と狩猟を好んだ。
  • 康熙帝からかなり正確な肖像画が書かれた。
  • 康熙帝が初代皇帝だとされた時代もあった。


関連項目編集

愛新覚羅


(三代皇帝)順治帝← →雍正帝(五代皇帝)

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