慶応3年6月、左大臣一条忠香の三女勝子(まさこ)が、皇嗣祐宮睦仁親王(明治天皇)の女御に治定された。
養母は伏見宮邦家親王の息女順子女王、生母は一条家の典医新畑大膳種成の女民子(花容院)。
勝子は「富貴宮」とも称したが、末姫なので寿栄君(姫)と改められた。
女御治定の翌年(明治元年)12月28日入内、皇后宣下を受けられた。
美子(はるこ)と称したのはこの折のことである。
嘉永2年のお生まれであるが、3年に改められている。
一条美子は19歳で、睦仁親王よりも3歳年上であるが、生年を早めたのは「四歳年上」を忌んでのことらしい。
皇后は幼少の頃から四書五経など漢学の素養を身に着けられ、和歌にも長じておられた。
秀歌をお詠みになられる明治天皇のよき話し相手となられた。
皇后の学殖が深く文藻の豊かなことは、『昭憲皇太后御集』によって拝することができる。
また皇后は時局の要請もあって、女子教育に意を用いられ、東京女子師範学校や華族女学校の開設に情熱を燃やされた。
慈善・社会事業の発展にも力を尽くされた。
才色兼備のお方であったが、不幸なことに蒲柳の質で、身体がお弱く、御子に恵まれなかった。
天皇との間にお生まれになった皇子女はお一方もおられない。
そこで歴代の伝統にならい、禁裡女官の中から側室を選ぶこととなった。
天皇は当初、皇后の立場を尊重され、側室を置くことに賛意をお示しにならなかった。
しかし女性としての発達がないおみおなかであるとすれば、側室を置かなければならず、天皇もついには皇后以外に多く女官を近侍させることになった。
明治12年8月31日、柳原愛子が皇子を出産。明宮嘉仁親王、後の大正天皇である。
天皇に近侍した女官は十指にあまる数であったらしいが、皇后はこれらに嫉妬されることはなかったという。
明宮がご誕生になると、皇后は心より喜ばれ、
大君のみそののたづもけふよりは 二葉の松の千代にともなへ
と詠まれている。また実母である柳原愛子についても同様で、明治天皇崩御後も参列を許したとされる。
大変優しいお方で、それは誰に対してでもあったという。
天皇とは概して御仲睦まじく、お食事の時はお話を交わしながらとられることが常であった。
天皇に勧められたこともあり、晩年の皇后は葉山や沼津の御用邸に行かれることが多かった。
天皇の崩御後は「皇太后」の尊称を受けて青山御所で過ごされた。
大正3年4月9日、沼津御用邸において崩御。御寿65歳であった。
諡号は昭憲皇太后。御陵は伏見桃山東陵に定められた。
なお、昭憲皇太后という名前については皇族身位令的には誤りとなる(これは「1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后」という順になっており、本来であれば昭憲皇后となるのが正しい)。しかし、当時は制定されて間もなかったということもありそのような風習が定着していなかったことも大きな要因となっており、当時の宮内大臣が誤った形で大正天皇に上奏し決裁あらせられた形となった。
こうした経緯もあるためか明治神宮は、1920年と1963年の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。