概要
九条道孝公爵の四女として、明治17年6月25日に誕生。本名は九条節子(さだこ)。
道孝の姉は孝明天皇の女御英照皇太后で、節子姫の伯母にあたられる。
道孝と中川局(野間幾子)の間にお生まれになり、生後間もなくから5歳の時まで、府下高円寺(現杉並区)の豪農・大河原家で養育された。
この時代の皇族や華族の間では、我が子を里子に出して、自然の中で逞しく育てるという風潮があり、また一方で赤子を他家で養育してもらうと丈夫になるという迷信もあった。
養い親の金蔵・てい夫妻は、田野の中で自由に遊ばせたので、節子姫は活発で意志の強い女性にお育ちになった。
日焦けして色黒になったので「黒姫さま」と綽名されたほどである。
明治22年、赤坂福吉町の九条家に戻り、明治23年9月、華族女学校(後の女子学習院)にご入学。
1年生の時に節子姫が休み時間、突然、調子外れの奇妙な歌を唄いだした。
「オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー」という、庶民の間で流行っていたオッペケペー節であった。
上流階級の令嬢である同級生たちはあっけにとられて姫を眺めた。
「九条さまは変な歌をお唄いあそばす」と驚いたのであるが、それは大河原家で覚えた歌であった。
どこか人の意表を突くような行動に出られるところが節子姫にはおありになった。
小学部・中学部と進み、明治32年に優秀な成績で卒業された。
この年の夏に明宮嘉仁親王の妃に選ばれた。
これは英照皇太后のご意向であったらしく、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮の妃に目されたようである。
明治33年5月10日、皇太子妃として宮中に迎えられ、ご成婚の式が挙げられて、日本中は祝賀ムードに酔いしれた。
昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。
皇太子嘉仁親王は節子妃の他に一人の側室も置かれなかった。
皇太子の身の回りのことは皇太子妃が大方お一人でお世話をされた。
お二人の間にはお四人の皇子がお生まれになったので、側室の必要がなく、一夫一婦制を堅持された。
ご結婚の翌年(明治34年)には迪宮裕仁親王(昭和天皇)、1年後の明治35年には淳宮雍仁親王(秩父宮)、それから4年後の明治38年には光宮宣仁親王(高松宮)がお生まれになった。
第4皇子の澄宮崇仁親王(三笠宮)のご出生は大正になってから、つまり皇太子嘉仁親王が皇位にお即きになってからで、慶事として報道された。
皇太子時代の嘉仁親王は壮健で、孱弱であられたということが信じられない程である。
父帝をはじめ周囲の者が、国事や政務よりも養生専一を優先としたからであろうが、皇太子妃の献身的な介護も大きかった。
大正期に入って皇后になられると、単独で動かれることが多かった明治天皇とは対照的に、天皇とご一緒に行動されることが多くなった。
天皇が病弱になられる大正10年代には、御用邸まで付き添われる一方、皇太子裕仁親王や秩父宮、高松宮と共に、天皇にお代わり申し上げて地方行啓をしばしば行われ、伊勢神宮や住吉大社などに参拝して天皇のご回復を祈願され続けた。
大正天皇の崩御後、皇后は養蚕・救癩事業・福祉事業などに努められ、大きな足跡を残された。
また燈台に関心を抱かれて、燈台守の不自由な生活に同情された皇后は、
あら波をくだかんほどの雄心を やしなひながら守れともしび
という歌を詠まれている。
少女時代にお読みになった燈台守の話に感動され、その思いを終生持ち続けられたのである。
大正天皇の崩御により、青山東御所に移られた皇后は、「大正天皇の遺影」を納めた御影殿に、朝夕礼拝する生活を送られた。
昭和26年5月17日、狭心症のため崩御。
諡号は貞明皇后(『易経』の一文「日月の道は貞しくして明らかなり」)である。多摩東陵に奉葬された。
宝寿67歳であった。