概説
(成務天皇40年〈西暦170年〉~神功皇后69年〈西暦269年〉4月17日)
不信心による神罰で崩御されたいう仲哀天皇に代わり、熊襲を再平定し新羅を征伐された。
神功皇后は筥崎宮(福岡県福岡市)のご祭神でもある。
伝承では新羅遠征の折、仲哀天皇の代任として懐妊したまま戦場に立ち、帰路で熊襲までお帰りになられた際に産気づき、そこで品陀別命(応神天皇)を御出産になられたという。
その後は大和で挙兵した仲哀天皇の二人の皇子を打倒し、応神天皇が成長するまでの間摂政として統治したという。
ちなみに日本書紀において、魏志倭人伝にある卑弥呼と同一人物であることが示された記述があり、日本書紀が「現存する日本最初の公式歴史書」として公式に定められていることから正史とされている。
また、日本書紀では「皇后」でありながら、歴代天皇と同じく一代記が有る為、(日本書紀では称号こそ皇后だが天皇として扱われている、という解釈から)時代によっては「歴代天皇の1人」に数えられたり、「日本史上最初の女性天皇」として見做される場合も有った。
(宮内庁・皇室の公式見解でも大正時代までは歴代天皇の1人として扱われていた)
研究
百済王の即位記事が三国史記における百済の歴代王の系譜と一致している事や、百済から奉納されたと記録された七支刀の実物が現存する事から、一部の記録は歴史的事実であると考えられている。
しかし九州に遠征した後、新羅征伐の陣頭に立ったという伝承については7世紀に斉明天皇が唐・新羅の連合と対峙するために九州へ滞在したとする後代の出来事を反映した創作ではないかとする説が有力視されている。石を使って出産時期を遅らせたという伝承は言うまでもない。
また、皇后の出身氏族とされる息長氏は現皇室の直系の祖とされる継体天皇と政治的にも血縁的にも非常に強い繋がりを持った一族で、6世紀以降に大和政権の有力豪族の一つに成長した。そのため息長氏が政権運営に参入する正当性を主張するために、5世紀以前の大王家と彼らの共通の祖先として神功皇后の存在を強くアピールしたか、或いはエピソードを創作したと考えられる。
また、帰国後に討伐したとされる忍熊皇子と香坂皇子は血統的に景行天皇のひ孫で日本武尊の孫という由緒正しき血統である一方、息長氏は記紀の系譜からして9代開化天皇から枝分かれしたかなりの遠縁であるため、息子を大王位の継承者とするには立場が脆弱である。そのため実際に継承権を持っていたのは忍熊皇子らの方で、反乱を起こしたのは神功皇后の側であったとする説もある。
余談
- 福岡県には神功皇后にまつわる地名が多い
- 帆柱山(福岡県北九州市八幡東区):新羅征伐の際の船の帆柱を切り出したとされる。
- 皇后崎(こうがさき。福岡県北九州市八幡西区):新羅征伐の前に神功皇后の上陸した地点とされる。
- 宇美(福岡県糟屋郡宇美町):新羅征伐を終え筑紫に戻った時にこの地で応神天皇を産んだとされる(産み=宇美)。神功皇后・応神天皇はともに町内にある宇美八幡宮のご祭神でもある。
- 箱崎【筥崎】(福岡県福岡市東区):応神天皇を産んだ後、この地に御胞衣【おえな。へその緒や胎盤の意】を入れた箱を埋めた場所を示す印として植えた松である「筥松」が由来。
- 御陵は奈良県奈良市山陵町の五社神古墳と推定される。近鉄平城駅より徒歩1分にあり、山陵八幡神社に隣接する。
- 上記にある紙幣や切手の肖像画に関して、西洋人風の美女の見た目になっているのがあるのはそもそもの原版を作ったのがイタリア人技師だったため。