概要
諱は「ヲホド」。『古事記』には袁本杼命(をほどのみこと)、『日本書紀』には男大迹王(をほどのおおきみ)と記されている。
父は第15代・応神天皇五世の孫・彦主人王、母は第11代・垂仁天皇七世の孫・振媛と伝えられており、天皇は父とともに越前国坂井にあったという(一説には父の故郷・近江国と行き来していたとも)。
一方、朝廷では第25代・武烈天皇に皇子・皇女がなかったことから後嗣が問題となった。
廷臣と語らった大伴金村連はまず丹波国桑田郡にあった第15代仲哀天皇五世の孫にあたる倭彦王を皇嗣に迎えるため兵を派遣したが、王は派遣された兵に恐怖し逃亡してしまった。
そこで大伴金村連は情け深く親孝行な男大迹王こそ皇嗣にふさわしいと考え、物部鹿鹿火大連、巨勢男人大臣らも同意したことにより新しく皇嗣に迎えられた。
使者に立ったものたちは天子の風格を見せる男大迹王に忠誠の意を示したが、男大迹王は即位を固持、しかし、百官が口をそろえて即位を申し入れたことにより承諾、樟葉宮(大阪府枚方市)において即位、第24代・仁賢天皇の皇女であり武烈天皇の妹である手白香皇女を皇后に立てたと伝えられる。
その後も筒城宮(京都府田辺市)、弟国宮(京都府長岡京市)、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に都を短期間に遷したのち、527年、百済に壊れて兵を九州北部に送るものの、新羅と通じた筑紫君・磐井が反旗を翻し、鎮圧に苦心することとなる。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の匂大兄(安閑天皇)に譲位した直後、82歳で崩御、『古事記』では527年、43歳で崩御したと伝えられる。
生没年
推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。
日本書紀の記述通りだと欽明天皇の誕生時に59歳頃となり、当時の平均寿命の短さと比較すると極めて高齢になる事から、古事記に記述された年齢の方がより正確なのではないかとする説もある。
皇統
欽明天皇の血筋が現在の皇室に続いているとされている。
- 皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。第24代・仁賢天皇の皇女)
・天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。第29代・欽明天皇)
- 妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)
・勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ。第27代・安閑天皇)
・檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ。第28代・宣化天皇)
- 妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹)
・大郎皇子(おおいらつこのみこ)
・出雲皇女(いずものひめみこ)
- 妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)
・神前皇女(かんさきのひめみこ)
・茨田皇女(まんたのひめみこ)
・馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)
- 妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女)
・荳角皇女(ささげのひめみこ) 斎宮
- 妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女)
・茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)
・白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
・小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫)
- 妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅楲の女)
・大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女)
・椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖
・耳皇子(みみのみこ)
・赤姫皇女(あかひめのひめみこ)
- 妃:和珥荑媛(はえひめ。和珥臣河内の女)
・稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
・円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
・厚皇子(あつのみこ。阿豆王)
- 妃:広媛(ひろひめ。根王の女)
・菟皇子(うさぎのみこ) 酒人公の祖(能楽の金剛流はこの子孫という)
・中皇子(なかつみこ) 坂田公の祖
王朝交替説
第25代・武烈天皇の治政において国政は乱れ、天皇もまた民を虐げる暴君であったという。
対する継体天皇は「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。」と『古事記』『日本書紀』で称えられ、なおも固持する男大迹王を説得して天皇に迎えることができたと記されている。
これらの記述は、王朝の簒奪を正当化するものとして歴史書に多くあることから、皇統においても簒奪が行われたのではないかとの説が根強く残っている。