第15代天皇。死後、八幡神として祀られたので、その名での知名度が高い。
詳細は八幡神の記事を参照
実績
天皇として
ホムタワケノミコト、ホムタノスメラミコト等とも呼ぶ。
神功皇后の胎内にあった時から、皇后を守護して新羅征伐を成功させたと伝わる。その治世においては近畿から西日本一帯の海の民、山の民をことごとく従えたとされる(戸部民夫『八百万の神々』)。『日本書紀』によれば、帰化を望んだ弓月君(秦氏の先祖)を支援するために新羅に派兵し、無事の渡来に成功した。また百済王が朝貢して論語などを献上している(『古事記』)。
子に仁徳天皇があるが、事績に仁徳天皇との重複が見られる。また、継体天皇の祖先として現皇室につながるとされる。
皇統
- 皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、品陀真若王の娘)
・荒田皇女(あらたのひめみこ)
・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、第16代・仁徳天皇)
・根鳥皇子(ねとりのみこ)
- 妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、品陀真若王の娘)
・額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
・大山守皇子(おおやまもりのみこ)
・去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)
・大原皇女(おおはらのひめみこ)
・澇来田皇女(こむくたのひめみこ)
- 妃:弟姫命(おとひめ、品陀真若の王女)
・阿倍皇女(あへのひめみこ)
・淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ) - 根鳥皇子妃
・紀菟野皇女(きのうののひめみこ)
・滋原皇女(しげはらのひめみこ)
・三野郎女(みののいらつめ)
- 妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、和珥日触使主の娘)
・菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)
・矢田皇女(やたのひめみこ) - 仁徳天皇皇后
・雌鳥皇女(めとりのひめみこ) - 隼総別皇子妃
- 妃:小甂媛(おなび、和珥日触使主の娘)
・菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつめのひめみこ) - 仁徳天皇妃
- 妃:息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、息長田別王の娘)
・稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ)
- 妃:糸媛(いとひめ、桜井田部連島垂根の娘)
・隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)
- 妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
・大葉枝皇子(おおはえのみこ、大羽江王)
・小葉枝皇子(おはえのみこ、小羽江王)
・幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ) - 履中天皇皇后
- 妃:迦具漏比売(かぐろひめ、稚武彦王の王女)
・川原田郎女(かわらたのいらつめ)
・玉郎女(たまのいらつめ)
・迦多遅王(かたじのみこ)
- 妃:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ)
- 妃:兄媛(えひめ、吉備武彦命の娘)
研究
実在の可能性が高いとされる仁徳天皇以降の歴代天皇や、逆に神話上の存在とする説が有力な崇神天皇以前の所謂欠史八代と比べると特に研究者の意見が別れている。
生誕や成長にまつわる伝承が非常に神話的である事から、記紀が編纂される以前、5世紀頃の大王家には応神天皇を始祖とする伝承があったのではないかという説がある。
実際、4世紀には奈良盆地の東部や北部に集中して建造されていた大王家の墓が5世紀初頭を境に大阪平野の古市・百舌鳥地域に移動しそのサイズも飛躍的に大型化しているという、いかにも政権の移動を思わせるような変化が見られる。
そのため戦後はこの時代に河内平野の豪族が大和の王家に取って代わったとする所謂王朝交代説が提唱された他、この説を更に飛躍させて九州の王家が大和を征服したという『九州王朝説』や、大陸の騎馬民族が海を渡り、九州を経由して征服王朝を樹立したといういわゆる『騎馬民族征服説』が提唱された事もあった。
現在は古墳の形状や副葬品に劇的な変化が見られず、むしろ旧型古墳からの緩やかな継承発展が随所に見られる事、それらと連動した変化が全国に分布する古墳でも見られる事などから、王朝交代と呼べる程の劇的な変動は無かったとする説が有力である。とはいえ大王家内部での対立や継承権の移動があった可能性は否定できず、その一種のターニングポイントが応神天皇の代であったと考える研究者も多い。
年代
古事記に分注の形で記された崩御年干支は西暦の394年頃に相当する。しかし日本書紀に記された百済王の即位記事と比較して導き出される即位年は西暦389年頃となる。
宮内庁が応神天皇陵に指定し、考古学的にも最有力候補となっている誉田御廟山古墳の築造年代が4世紀の初頭とされている事などから日本書紀の記述の方がより正確であるとする説もある。
没年に関しては不明瞭だが、『晋書』安帝記の記述で413年に高句麗と倭国の遣使があったとされており、この時期の倭王を応神天皇ないしは息子の仁徳天皇とする説がある。これを信じるならばその治世は少なくとも410年頃まで続いたという事になる。