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八幡神

はちまんのかみ

応神天皇、もしくは応神天皇と母神の神功皇后と父神の仲哀天皇等の相殿の神々のこと。武家の守護神、源氏の守護神として武名を轟かせた。現代には安全の守護神、縁結びの神ともなっている。
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概要

八幡神とは応神天皇のことである。相殿に母神の神功皇后、父神の仲哀天皇、比売神(妃神の仲津姫命あるいは宗像三女神等のこと)他を祭る。神仏習合の立場からは八幡大菩薩の別名を有す。

天皇として

ホムタワケノミコト、ホムタノスメラミコト等とも呼ぶ。

神功皇后の胎内にあった時から、皇后を守護して新羅征伐を成功させたと伝わる。その治世においては近畿から西日本一帯の海の民、山の民をことごとく従えたとされる(戸部民夫『八百万の神々』)。『日本書紀』によれば、帰化を望んだ弓月君(秦氏の先祖)を支援するために新羅に派兵し、無事の渡来に成功した。また百済王が朝貢して論語などを献上している(『古事記』)。

子に仁徳天皇があるが、事績に仁徳天皇との重複が見られる。また、継体天皇の祖先として現皇室につながるとされる。

八幡神として

後世では、宇佐の地に宇佐八幡宮が立ち、まず託宣の神として朝廷に崇敬された。養老四年(720年)、隼人征伐に際して「我征きて降し伏すべし」と託宣して自ら征討し、多くの隼人を討つ。天平勝宝元年(749年)聖武天皇大仏鋳造に際しては「天神地祇を従えて銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて大仏を鋳造しよう」と託宣して事業の成功を助け、菩薩の称号を奉られた(戸部民夫、同書)。神護景雲三年(769年)、権勢を誇った僧侶道鏡皇位簒奪しようとした事件においては、和気清麻呂に「無道の者掃除すべし」との託宣を下してその陰謀を打ち砕く。平安京造営に際しては都の南に石清水八幡宮が造営されて王城鎮護の役割を果たした。

その後、源氏の守護神ともなる。源義家は石清水八幡宮の社前で元服して八幡太郎義家と名乗る。源頼朝鎌倉幕府を建てるに際して、鎌倉鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として厚く祀った。御家人を初めとして全国の武士たちもこれに倣い、武士の守護神として八幡神を崇敬した。元寇蒙古襲来)に際しては、八幡神が季節外れの暴風雨(神風)を起こして200隻を越える蒙古軍の軍船を壊滅させる(戸部民夫、同書)。こうして国家鎮護の神、武神としての名声は不動のものとなっていった。かくして諸国の武士たちは出陣に際して「南無八幡大菩薩」と八幡神の加護を願った。

室町幕府の成立にも源氏の守護神として関わっている。初代将軍足利尊氏の祖父、足利家時は祖先源義家が残した七代後の子孫に転生して天下を取るという遺言を実現できず、己の命を捧げることで子孫三代の内に天下を取ることを八幡神に願い自害したという(『難太平記』)。この家時の置文(遺言)通りに孫の尊氏は天下を統べることになったわけだ。また、尊氏の庶子足利直冬が父尊氏と嫡流の義詮とに対立して京都を攻め、決戦の前に石清水八幡宮の託宣を求めたことがあった。この時の託宣は「たらちねの親を守りの神なれば 此手向をば受る物かは(八幡神は親を守る神であり、子のそなたの捧げものは受け取れない)」とあった(『太平記』)。八幡神が幕府側を守護すると知った直冬の諸将たちは諸国に散り去ったという。

八幡神は京都の南を守り悪霊を退散させる神であり、広くは悪病災難を退散させる神である。水の神であり、防火の神ともされている。転じて家屋を守護する神、交通安全の神ともなり、縁結び子育ての守護神ともなって現代も多くの信仰を集めている。

関連タグ

神道 日本神話 応神天皇 八幡神社 武神 軍神
平安京 京都 鎌倉 源氏 神風

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