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平安京

へいあんきょう

明治期の東京遷都まで、現在の京都府京都市に1,200年近くおかれた日本の首都。
目次 [非表示]

概要

平安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった(ただし、豊臣秀吉の時代に都を囲む土塁は築かれたことがある)。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。

平安京の範囲は現在の京都市街より小さく北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。

道幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていた。


歴史

桓武天皇は784年に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の793年の1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野であった。

事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたと云われている。日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

長岡京からの短期間の遷都には、配流されて死んだ早良親王の怨霊が原因とされた皇后らの死と疫病の流行、洪水による都の大被害が理由として挙げられる。この為、これまでの慣例では山城国葛野郡という所在地から葛野京と名付けられるはずであった新都は、平穏無事を祈って平安京(音読みではへいあんきょう、訓読みではたいらのみやこ)と名付けられたとされる。


平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿を作り、天皇の権威を示した。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。

これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。

このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。

そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認める。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えたのである。

794年10月22日に桓武天皇は遷り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。


810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという動きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ、国の安定と考え、この動きを退ける。そして平安京を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の都という意)。


右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。

貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。天皇の御所も大内裏を離れて左京を転々とするようになり、大内裏は荒廃してやがて武士の鍛錬場に用いられる内野という原野になっていく。1115年(永久3年)から白河上皇が鴨川東岸に白河南殿・北殿を築いて政治の中枢とし、その南の六波羅は平家の拠点となった。その後朝廷は左京に戻るが、六波羅には鎌倉幕府の拠点である六波羅探題がおかれて京都武家社会の中心となった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られた。

平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府の成立と承久の乱後の朝廷弱体化によって行政府としての機能を次第に失っていく。室町幕府が成立し幕府が京都を本拠地とすることによって政治の中心に返り咲くが、各地の守護が力を強めて以前ほどの求心力はなかった。しかしなおも全国に流通網をめぐらす商業や金融の中心地であり、工芸品や織物などの工業も栄えた。応仁の乱により過半が消失するが、数十年後には町衆の力により復興している。安土桃山時代に入っても、織田信長豊臣秀吉は重要拠点と見なして町の発展を保護した。江戸時代には、国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の機関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担い、各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩間の外交を行い、独特の政都としての地位を有した。


明治維新の際には、明治天皇の東京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(1871年(明治4年)廃止)。江戸を東京と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「遷都」という言葉は避けられた。以後も天皇の京都行幸は度々行われ、その際には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所(京都大宮御所)に宿泊することが慣例となった。


現代において日本首都東京都であるとほとんどの日本人が認識する所であるが、実は現行法において東京を首都と定めた法律は存在しない状態にある。過去において有効な首都制定法を探すと、平安遷都の勅にまで遡るとされる。この事や「東京」という名前は「東の京」であることから、今でも日本の本当の首都は京都府であるという説も存在し、そう主張する市民も少なからずいる。なお、天皇の玉座である高御座も京都御所の紫宸殿に据え置かれており、即位の礼も昭和天皇まで京都で行われた。


平成時代明仁天皇からは京都ではなく、東京で即位の礼が行われるようになっており、次代の今上天皇もそれを受け継いでいる。また、政治・経済・文化の発祥地としての影響力も考慮すれば、首都は名実と共に東京になっているともいえる。


余談

  • 実は平安京内には神社仏閣は数えるほどしか存在しておらず(特に仏閣は東寺・西寺の2つしかなく、しかも、西寺は早い時期に衰亡した)、実は京都の観光名所の多くは「平安京の外(洛外)」か「鎌倉時代以降に作られたもの」である。

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