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早良親王

さわらしんのう

奈良時代末期の皇族。追称は崇道天皇。御霊信仰で祀られる御霊の筆頭として崇敬され、一方で日本三大怨霊をも上回る別格の大怨霊ともされる。
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奈良時代末期の皇族親王禅師とも呼ばれた。追称は崇道天皇

ただし皇位継承をしていないため歴代天皇には数えられていない。


天平勝宝2年(750年)? ~ 延暦4年9月28日(785年11月8日)。


生涯編集

光仁天皇の皇子。母は高野新笠能登内親王桓武天皇の同母弟にあたる。

天平宝字5年(761年)に11歳で出家して東大寺に入ると定僧都を師とし、羂索院(法華堂)に住む。

神護景雲2年(768年)には大安寺東院に移り住んだ。


亀宝元年(770年)に21歳で登壇受戒すると、同年に父の白壁王(光仁天皇)が即位したことから親王禅師と呼ばれた。

この頃には東大寺運営の主導権を握っていたとされ、宝亀2年(771年)には実忠に命じて大仏殿副柱を構立するなど南都寺院において絶大な力を持つようになった。


天応元年(781年)に同母兄の山部親王(桓武天皇)が即位すると、光仁天皇の勧めによって還俗し、皇太弟として立太子された。

東宮傳には藤原田麻呂、春宮大夫には大伴家持、春宮亮には林稲麻呂がたてられる。

家持が集めた歌集がこの頃に早良親王に献上されたと言われ、これが後の万葉集勅撰の契機となったとされている。


桓武天皇は延暦3年(784年)11月11日に平城京から長岡京へ遷都し、延暦4年(785年)正月には宮殿で新年の儀式を行った。

遷都の理由のひとつとして、桓武天皇は政治に影響力を持っていた南都寺院を排除したかったのではと考えられている。


しかし、同年8月に桓武天皇が伊勢の斎宮となる第一皇女・朝原内親王を見送りに旧平城京へと行幸したひと月後の9月23日夜に「藤原種継暗殺事件」が起こった。

長岡京遷都の責任者であった藤原種継が暗殺されるという一大事件であるが、取り調べの結果、大伴家持・五百枝王紀白麻呂大伴継人大伴永主林稲麻呂らが早良親王を担いだ謀反であると断定され、早良親王も事件に連座していたとして廃太子された。

9月28日には長岡京の乙訓寺に幽閉され、淡路国への流罪が決まった。


早良親王は無実であることを証明するためとも、朝廷から飲食を停止されたとも言われるが、幽閉から10日余りの絶食に耐え、淡路国に配流される途中、河内国高瀬橋(現在の大阪府守口市高瀬神社)付近で憤死したとされる。

それでもなお桓武天皇は、弟の早良親王の亡骸をそのまま淡路国に運ばせて埋葬させた。


藤原種継暗殺に早良親王が実際に関与していたのかは不明である。


没後編集

早良親王の死から間もなく、延暦3年(784年)11月には桓武天皇の親王である安殿親王(後の平城天皇)が立太子した。

しかし延暦5年(786年)に桓武天皇妃藤原旅子の母・諸姉が死去すると、この頃に安殿親王が発病したとされる。

延暦7年(788年)5月に藤原旅子が、翌月に後宮重鎮の皇后宮大夫であった石川名足が死去すると、7月には九州で霧島山噴火した。

延暦8年(789年)に早良親王と桓武天皇の生母である皇太后高野新笠が崩御する。

延暦9年(790年)には桓武天皇の皇后藤原乙牟漏が病死する。その後も高津内親王の生母である坂上又子の病死が続き、さらには地震、日照りによる飢饉疫病の大流行、洪水伊勢神宮正殿の放火など様々な変事が相次いだ。


延暦11年(792年)年に安殿親王の病気の原因を陰陽寮に占わせたところ「早良親王の怨霊によるもの」であると判明しため、早良親王の御霊を鎮めるために幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。

延暦12年(793年)年正月14日、桓武天皇は30人の僧を宮中に参内させ薬師経を読ませて、早良親王に鎮謝すると共に、体調不良の続く安殿親王の健康を祈願している。


それでもなお延暦12年(793年)8月、10月、延暦13年(794年)1月、6月、9月と長岡京で立て続けに地震が起こり、射場に怪異現象が出現したことから、長岡京造営から僅か10年後の延暦13年(794年)10月22日に桓武天皇は長岡京を廃都して平安京へと遷都し、11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。


延暦16年(797年)5月に宮中に怪異があり早良親王の魂鎮めが行われ、8月には遷都した平安京でも地震が起きた。延暦18年(799年)年2月神野親王(後の嵯峨天皇)が元服の時に再び早良親王の魂鎮めが行われた。


延暦19年(800年)3月には富士山が噴火した。これを受けて7月には早良親王の怨霊鎮魂のために崇道天皇と追称され、淡路国から大和国に移葬された。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。


延暦24年(805年)4月には祟道天皇を慰霊するために、諸国に小倉を建てて正税40束を納めさせ、あわせて国忌と奉幣の例に加えることが命じられた。『日本後記』には「怨霊に謝するためである」と記述されており、これが日本の史料上に「怨霊」という言葉が登場した最初の記述とされている。


大同元年(806年)、日本で初めて彼岸会が行われた。『日本後紀』には、崇道天皇のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と記述されている。これがこの彼岸会員が現在の彼岸法要の由来・起源ではないかとされている。


貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会が行われ、祟道天皇は「御霊信仰」で祀られる御霊の筆頭として、現在まで畏敬の念を持って崇められている。


御霊として信仰される一方で、都をひとつ廃都させるほどの被害をもたらした怨霊は早良親王のみであり、国家・社会全体にもたらした影響の大きさから早良親王は日本三大怨霊をも上回る最大・最強の大怨霊ともされる。江戸時代には菅原道真平将門崇徳院が読本や歌舞伎など物語化して現代に大きく影響を与えているが、早良親王は物語化することさえ憚られた。


平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本記』には、早良親王廃太子の記事は発端となった藤原種継暗殺事件と共に記載されていない。

当初は記載されていたものの削除され、平城天皇の代になって再び記載された。理由として平城天皇が種継の遺児である藤原薬子を寵愛したことや、早良親王の廃太子によって皇太子となったことから、早良親王が大怨霊となったことを否定することで、平城天皇の皇位継承は正当性があると主張したものと考えられる。

しかし嵯峨天皇の代になると早良親王廃太子の記事は再び削除されている。


俗説編集

淡路国へ配流される途中で憤死せず、吉備国児島へと逃れて名を隠したのが阿久良王であるという文献もあるが、伝説であり史実とは考えられていない。


関連タグ編集

天皇 親王禅師 崇道天皇

日本史 奈良時代

人神 怨霊 御霊

日本三大怨霊 菅原道真 平将門 崇徳院 怨霊系男子

阿久良王

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