あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく 今盛りなり ―小野老『万葉集』巻3
解説
710年から784年(途中中断あり)までのいわゆる奈良時代における日本の首都であった。現在の奈良県奈良市に位置する。
「平城京」と書いて音読みではへいじょうきょうだが、訓読みではならのみやこと読み都の所在地を示す地名である。「なら」は平城以外に寧楽、奈良とも書き、平らな地形を意味する。
条坊制と呼ばれる縦横に街路を巡らした平城京の都市計画は、唐の長安等の当時の主要都市と共通する。中央を南北に道幅100mにもなる朱雀大路が走り、その北端に天皇の宮殿および朝廷となる平城宮があった。住人は位階が五位以上の貴族と六位以下の下級官人、最下層には税金の一種として地方から集められて警備や労働に従事した衛士や仕丁といった人々が位置する。総人口は5万人~10万人程度とされる。
784年に長岡京へ遷都が行われ、そして千年以上の月日が流れた。都の跡地はすっかり土にかえってしまい、世界遺産の上を近鉄が爆走する愉快な光景が広がっている。唯一、東の外れにあった興福寺は藤原摂関家の氏寺として平安時代も強大な権力を維持した。中世に治安が悪化すると僧兵を組織し、その僧兵が武士団として活躍する事で戦国時代の混乱の最中も興福寺や東大寺などの寺社とその門前町は維持され、近代に至った。中でも東大寺の正倉院は平城京の貴重な遺産を保存してきた宝物庫であり、奈良時代の平城京の姿を今でも垣間見ることができる。
2010年に遷都1300年を迎え、各種記念事業が行われた。