概要
古代中国において首都が置かれた地の一つにして、その最大のもの。
唐王朝の最盛期には、人口100万人を数えたという。
歴史
記録に残る限り、最初にこの地に都をおいたのは周である。文王の時代までは豊邑、武王の時代以降は川を挟んでやや東の鎬京を都とした。周の時代に諸侯として成立した秦王朝はこの地を東西に流れる渭水の北岸、咸陽を都にした。
一時は全中国を統一した秦が滅び、咸陽が項羽によって破壊されたのちに、前漢初代皇帝となった劉邦は張良らの進言により、渭水の南側に都を築いてこれを長安と名付けた。宮殿は蕭何が建設したという。その後の王朝も多くが長安を都としている。長安は鎬京跡の東方に建設されている。なおこの一帯は、関中と呼ばれる周囲を山岳に囲まれた豊かな大地に位置しており、秦・前漢時代には山岳の関に寄って守りやすく多くの人口を養えるまさに首都に最適の場所であった。その地勢は「沃野千里」「王城の地」と讃えられた。
長い混乱時代を経て再び全国を統一した隋の文帝は、かつての長安のやや南東に都を築いて大興と名付けた。この隋を滅ぼした唐王朝は、都の名を長安に戻した。大興攻略の指揮を取って唐2代目皇帝となった太宗李世民は、中国を統一したばかりか遠く中央アジアに領土を広げる。かくして長安の都には日本や朝鮮などの東方からの交易品、全国の富、そしてシルクロードを経て西方からもたらされる交易品が流れ込んだ。これらの商取引がもたらす繁栄により、長安は当時としては無類の百万人都市にまで成長した。しかしそうなるとさしもの関中もすべて食わせるだけの食糧は生産が追い付かなくなってしまった。長安の食糧は南方からの大運河による供給に頼ることになり、飢饉のたびに都を飢えが襲うようになった。やがて唐末の混乱の中で長安は破壊され、のちの王朝はより大運河の供給に便利な開封へと都を移していった。
現代の中華人民共和国においては西安と呼ばれる街になっている。既に都ではないが、人口、経済力とも依然かなりの重要都市である。