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概要編集

蕭何とは前漢宰相である。

劉邦の立ち上げ期から付き添い、主に後方支援や領土の統治など政治的な面で劉邦を支え続け劉邦から最大の功臣であると讃えられている。



来歴編集

劉邦と同じく沛県の出身。事務能力に優れていたため沛の県令(秦の本国から派遣されたその地域のトップ)の補佐役のような位置におり、劉邦とは対照的に若い頃からそれなりのエリートコースを歩んでいた。ちなみに、曹参もこの頃の同僚である。


この頃から劉邦とは仲が良かったのか、あるいは妙に人望があるので利用できそうと思ったのか、職を持たない劉邦に亭長(今でいう駐在所長)の職を斡旋するなど面倒を見ていたようだ。


始皇帝が逝去し二世皇帝胡亥、そして悪宦官の代名詞ともいえる趙高の暴政で各地で反乱がおこるようになると、沛の県令はそれに呼応して反乱を起こそうとする。


しかし「秦本国から送られたあなたが声をかけても誰も賛同しないでしょう、だったら今野盗をやっている劉邦に、沛の民を脅かさせて言うこと聞かせましょう」と進言し、県令もそれに従ったのだが、県令がギリギリで心変わりしたため命からがら劉邦の陣営に逃げ込まざるを得なった。(劉邦は労役者を送る役目を担ったがその労役者が途中で逃亡したため連座で罪に問われるのを恐れ本人も逃亡、沛の山奥に隠れてる内に秦の暴政から逃れた人々も吸収して野盗と化していた)


その後沛の民に反乱を促し県令を殺害させた劉邦は沛に迎え入れられ、劉邦をトップに沛に独立勢力を築き上げ劉邦は沛公を名乗ることになった。

ただし、史記には「蕭何と曹参は反乱が成功しなかった時には一族が皆殺しになることを恐れていたので劉邦を推薦した」と書かれている。

これ以降劉邦の部下として働くことになり、この時期戦に加わった形跡が僅かながらある。


劉邦が秦の都咸陽に一番乗りした際には金品財宝には目もくれず法律書や戸籍、地理書といった行政文書などの機密文書を大量に確保。これにより天下の要塞、人口、地域の強弱などの他勢力が持たない情報を得ることになり、諸将や政治家も蕭何が確保した情報を元に戦略をたてることができ、勢力の保持、拡大という面で大きなアドバンテージとなった。また、統一後には項羽による略奪や焼失から免れたこれらは統治に大いに役立った。


劉邦が僻地である漢に左遷された際、劉邦や武官たちが怒り狂う中、「今の状態で項羽と戦ったら絶対負ける、それなら漢で力を蓄えチャンスをうかがった方がいい」と進言、張良も「三秦は必ず乱れる」と蕭何の意見に賛同したことから劉邦らも矛を収め漢に向かう事になった。


漢中に入った際には韓信と出会いその才能を見出して大きな役目を与えるように推挙、劉邦は始めのうちは渋っていて小さなポストだけを与えていたがそれに失望した韓信を追いかけ蕭何が一時的に漢中から離れ、劉邦は逃げ出したと勘違いしたというショック療法じみた行動もあり、韓信を軍のトップに大抜擢し後の覇業に続く道を作り出した。


楚漢戦争中は常に関中に留まるが戸籍や法律を整備して生産を管理、兵糧や兵士を常に前線に送り続けた。楚漢戦争において劉邦は項羽に度々敗北を喫して多くの兵を失っていたが、それでも敗北の度に立て直して最終的に勝者となった原動力は蕭何による兵や物資の補給、そしてそれだけの補給を続けながら本拠地の関中を政治的に安定させ、劉邦が戦に集中できる状況を確保していたからである。


統一後も秦の法をベースに新しく法を作り運用し、後任の曹参に「蕭何によって法令が明らかにされた、だから我々にできることはそれを正しく守ることだ」と言わしめるほどの高い実務能力を発揮し続けている。劉邦は出自からして実務能力が高かったとはとても考えにくく、漢の法律や制度のほとんどは実質的に蕭何、曹参がつくった物と思われる。


一方で、己が推挙して覇業に大貢献したものの後に謀反をたくらんだ韓信を劉邦不在時に謀殺したり、劉邦からの猜疑心をいなし続けて時にはわざと微罪で疑われることで誅殺から身を守ったり、親族も前線に出させ、忠誠心と自身の親族で国を乗っ取る意思がないことを示したりと政治家としての冷徹なバランス感覚も持ち合わせていた。


結果として劉邦から疑われたことはあったものの他の功臣たちのように粛清されることはなかった。

劉邦が逝去すると、そのわずか一年少し後に逝去した。



評価編集

史記の作者 司馬遷は「蕭何は秦の時代に書記の小役人となり、碌々凡庸、人と異なった節行はなかった。漢がおこると高祖(劉邦)の余光により、信と謹みをもって国を守り、民が秦の苛法を憎んでいたため、時勢に順応して民とともに更始一新の大業に従事した。韓信、英布が粛清されたが、蕭何の勲功は光輝き、地位は群臣の上に置かれ、名声は後世まで流れ、閎夭、散宜生と言った周王朝の功臣達と功業を争うものと言うべきであろう」と評している。


劉邦は戦功第一に戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を選んだ。


秦に乗り込んだ際に蕭何が確保した地理や地域の強弱などの情報、送り続けた兵糧と兵士、根拠地である関中の安定がなければ、負け続けても何度も立て直すことはできず、最終的に勝利することもできなかった為である。


諸将が戦場で戦ってこなかった蕭何を戦功第一にすることに不満を漏らすと劉邦は「諸君らの功績は狩猟の犬と同じである。蕭何の功績はその猟犬の主のようなものだ」と語った。


関連タグ編集

  • 劉邦⋯主君。心から忠誠を誓っていたかは諸説あるが、少なくとも最後まで家臣として仕え続けたのは事実である。
  • 張良 漢の三傑。戦略や謀略を得意とする。
  • 韓信⋯〃。戦術や軍を扱う事を得意とする。蕭何が何がなんでもスカウトしたのがこの韓信である。
  • 曹参⋯後継者の一人。途中から不仲になったが、死去間際に訪れた恵帝が後継者として挙げた際に賛同を示したことから能力は認めあっていた。
  • 陳平⋯〃。曹参死後の呂氏の専横にクーデターを起こす。

  • 高橋のぼる⋯劉邦の漫画を描いており、蕭何が狂言回しとして登場。「私は蕭何」という語りを毎回入れており、もはやクドイくらいである。

参考リンク編集

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