概要
蜀郡に地方王朝「成家」を建てたが、東漢軍に敗れて死に、蜀は併呑された。
来歴
紀元前7年、茂陵県(陝西省)に誕生。父の公孫仁は侍御史であった。
若い頃から有能で、天水郡清水県の県令に任じられると天水郡太守がその能力を評価し、その後、五県をまとめて治めさせた程であった。
14年、導江郡卒正(前漢時代の蜀郡太守)となる。
23年、更始帝が即位すると蜀の各県でも豪傑が挙兵して呼応し、公孫述も使者を遣わして宗成と王岑を迎えたが、彼らは成都に至ると略奪をはたらき、暴虐の限りを尽くした。そのため公孫述は県内の豪傑を募って宗成と王岑を討伐する。
長安に更始帝の軍勢が入城し、王莽は混乱の中で殺された。
24年、更始帝が李宝、張忠を蜀郡へ侵攻させたが、公孫述は弟の公孫恢の軍を派遣し追い払った。
25年、李熊の勧めで皇帝を号し、国号を成家とし、成都を都とした。年号を建てて龍興元年とした。
越巂の任貴が太守を殺して降伏した。侯丹を劉嘉と延岑の戦いで空白になっていた漢中に進撃させ、戻ってきた劉嘉は撃退した。任満を江州に下らせ、扞関を占拠した。これにより益州の地を全て手に入れた。
26年、天水の隗囂からの使者として馬援が訪れたが、旧知の仲であるにもかかわらず公孫述は高圧的で、馬援は隗囂に対し「公孫述は井の底の蛙であり、光武帝に味方するべき」と訴えた。
28年、隗囂が長男の隗恂を人質とし、光武帝に臣として降った。
29年、荊州南郡の秦豊が光武帝に降伏し、部将の延岑は公孫述に降った。公孫述は延岑を大司馬に任命し、汝寧王に封じた。
30年、公孫述が荊州南郡へ侵攻し、光武帝は隗囂に蜀郡侵攻を命じたが動かなかった。光武帝は隴西を通って公孫述を討たんとし、これを嫌った隗囂は耿弇らを撃退。
31年、隗囂が公孫述に臣従。
33年、公孫述が田戎、任満、程汎に江関を下らせ、馮駿、田鴻、李玄を攻撃し破った。続けて夷道、夷陵を抜き、荊門、虎牙を占拠した。隗囂は漢軍との戦いの中病死し、子の隗純が跡を継ぐ。
34年、光武帝は来歙に隗純を捕えさせ、隴西を平定。
35年、漢軍の岑彭は長江流域の蜀軍の水上要塞を焼き払うのに成功し、攻勢に出て蜀軍の田戎を江州まで撤退させた。馮駿に田戎を包囲させておき、自らは巴郡を平定した。
北からは来歙、蓋延、馬成が進軍し、河池、下弁を陥落させた。公孫述は刺客を送って岑彭・来歙を暗殺するが漢軍の進撃は止まらなかった。
劉秀は公孫述に書を与えて、信義を守ることを約束したが公孫述は降伏を拒んだ。
36年9月、公孫述は漢軍に追い詰められ、公孫恢と娘婿の史興が戦死した。今後について延岑に相談すると「男児当に死中に生を求むべし」と進言を受けたため、私財を投げ打って決死隊5千人を集めた。延岑は漢軍総大将の呉漢を市橋で奇襲して破り、一矢を報いた。
12月24日、延岑が成都城北側の咸門を攻撃してきた臧宮と戦い、3度漢軍を押し返した。しかし公孫述は護軍高午に矛で刺され、その夜に延岑に兵を託して死去。延岑は翌日呉漢に降伏した。
苦しかった蜀軍との戦いの反動か、呉漢は延岑を殺し、公孫述の一族を皆殺しにし、兵を放って略奪し、宮殿や城内を焼き払った。光武帝はこれを聞いて怒り、呉漢を叱責した。この時の遺恨が原因で後に蜀郡で反乱が起きる。