韓信とは
漢の高祖・劉邦に仕えた将で、同時代に二人いる。
1.漢の上将軍に抜擢され楚漢戦争において目覚ましい戦果を挙げ、楚王・項羽を打倒し漢王朝建国に導いた希代の用兵家で「漢の三傑」の一人。
ありとあらゆる戦術を得意とした天才軍人であり、為政者としても優れた手腕を発揮するが、最後は謀反に失敗して処刑された。史記「淮陰侯列伝」に記載。
2.1と同じく劉邦の配下。韓王室出身。同姓同名の淮陰侯韓信と区別するために韓王信と呼ばれることが多い。長身で知られた。漢王朝成立後、反乱を起こし匈奴に降る。のち漢への帰順を拒み柴武に討たれた。史記「韓信盧綰列伝」に記載。
ここでは1について述べる。
概要
「韓信の股くぐり」
淮陰に生まれた彼は学問に秀で、とりわけ戦術においてその才能を見いだしたが、母親の葬式代すら払えないような貧家であった。韓信自身も若年の頃は素行が悪く怠惰であったためか甲斐性が無く、乞食同然の洗濯婆さんに飯を恵んで貰ったり、町のチンピラに脅されて股の下をくぐらされたりと情けない逸話を生み出している。このエピソードから「股夫」という蔑称を付けられるほどであった。ちなみにこの”韓信の股くぐり”は「負けるが勝ち」ということわざの引き合いの例に出されているため日本でもよく知られている。しかし、当時は腰抜けの代名詞扱いされ、行く先々で散々苦労することになった。
漢の上将軍に抜擢
秦の始皇帝の没後に勃発した陳勝・呉広の乱を機とする反乱が起きると項梁(楚の名将・項燕の子)の陣営に参戦し郎中(下級警護役人)として働いたが、股夫の評判を嫌った項梁や甥で後を継いだ項羽からは意見を述べても相手にされず范増の進言があっても用いられなかった。
秦の滅亡したのち、蜀の地に左遷された劉邦のもとに身を寄せ仕官するが、前述の評判の悪さを知っていた劉邦にも好まれず治粟都尉(兵糧管理官)にしか就けなかった。しかし、彼の才能に気付いた重臣・夏侯嬰(後漢~三国時代の曹操や夏侯惇らの先祖)と蕭何によって強く推薦され、紆余曲折を経て根負けした劉邦によって全軍の指揮権を有する上将軍に任じられた。
この思い切った大抜擢を機に韓信の大躍進が始まった。漢軍を再編し鍛え直した彼は瞬く間に関中を攻略し、打倒項羽の足がかりを築き上げた。
斉王即位
その後劉邦は項羽に不満を持つ諸国と連合軍を結成し項羽と対決したが、項羽の精鋭部隊によって壊滅させられてしまった。
これによって諸国が劉邦の漢陣営から離れてしまったので、劉邦は体勢を立て直すため韓信を別働軍の長とし、楚の影響下にある国を平定させることにした。
ここでも韓信は縦横無尽に活躍し、ろくに兵力増強もままならない状況をものともせずあっというまに魏・代・趙・燕を下してしまった。しかしこの時点で彼は一個の勢力となったためか考え方が変貌する。
野心が芽生えたのか、強大国家・斉を攻略したさいに斉の王になろうとしたのである。これには劉邦も激怒したが、韓信を敵に回す訳にはいかなかったので渋々斉王に任じた。失敗したが項羽も韓信を味方に付けようとするなど漢楚双方に取っては無視できない勢力になった。そしてそのことが後の悲劇へと繋がってしまうのである。
楚への転封、淮陰侯への降格
ともあれ諸国を平らげ漢を戦略的に優位な立場にのし上げた韓信はその後も漢軍の指揮を取った。そして垓下の戦いでは総指揮を取るが韓信の本隊は項羽の猛攻の前に敗北寸前まで追い込まれたが、最後に項羽を打ち破った。
ここに漢の統治が始まったが、韓信にとっての絶頂期は長くは続かなかった。
韓信の戦略的な才能と野心は劉邦にとって恐るべきモノになっておりのち斉から楚に転封される。そして権力の頂点に達した指導者がかかる病、粛清のターゲットに彼は真っ先に選ばれてしまうのである。
友人で元項羽の将・鍾離昧を匿っていたことで劉邦から難癖を付けられ、雲夢に行幸した際に捕らえられ、一命こそ助かるが淮陰侯にまで格下げされる。
あっけない最期
その後、韓信は鬱々と楽しまない日々を送り本気で天下取りを考えるようになる。匈奴に降った2の韓王信の討伐も病気を理由に参戦拒否。のち劉邦が代の反乱鎮圧の為に出陣した隙に首都・長安を混乱させ皇太子・劉盈(後の恵帝)と呂后の身柄拘束を狙い謀反を起こすことを目論む。しかし、使用人に密告されバレてしまい最後は蕭何によって捕らえられ呂后の命で処刑された。
韓信にまつわるエピソード
国士無双
蕭何が劉邦に韓信を推薦した際に引き合いに出した言葉である。「天下国家に並ぶ者のない逸材」という意味である。麻雀の役の一つにも名付けられている有名な言葉である。
背水の陣
韓信が趙を攻めた際に用いた戦法である。普通軍が陣を展開する際は防御の意味も込めて川を前にして陣を置くのだが、韓信は敢えて川を背にし自ら退路を断ったのである。韓信の十倍の兵力を持っていた趙軍はこれを侮り全軍を率いて殲滅しようとしたが、必死になった漢軍の頑強な抵抗にあって足止めを喰らってしまい、その隙に空になった城を漢軍の別働隊に攻め落とされ挟み撃ちにされて大敗した。いわば背水の陣は囮として用いたのだが、今日では「自ら退路を断って必死の力を引き出す」と言う意味のことわざとして知られている。
多々益々弁ず
韓信が残した有名な言葉である。ある席で韓信が劉邦と語らった時、劉邦が「俺はどれくらいの兵士を動かせるかな」と韓信に問うと、「陛下は一〇万人くらいでしょう」と答えた。「ではお前はどれほどの兵士を統率できる?」と聞くと「多ければ多いほど上手く率いることが出来ます(多々益々弁ず)」と述べた。
「そんな奴がなんで俺の下で働いてるんだ?」「私は兵の将、兵士の上に立つ人間です。それに対し陛下は将の将、つまり将帥の上に立つ人間だからです。こればかりは努力で真似は出来ません。天賦の才だからです。」
自分と劉邦の本質を突いたこの弁を聞いて劉邦はたいそう喜んだとされる。
いまでは「物事は多ければ多いほど良い」ということわざとして使われている。
狡兎死して走狗烹らる
春秋戦国時代の天才軍人:范蠡が後世残した言葉だが、韓信の晩年を体現する内容であったためかよく引き合いに出される。
「野に兎が居なくなれば、用済みとなった猟犬は煮て喰われてしまう」、引いては活躍する時期を過ぎた臣下は疎まれ排除されるという意味である。
あまりにも優れた才能を持っていたために劉邦から疎まれ処刑されてしまった韓信は、まさにこの典型例と言えた。
股夫のその後
項羽の後の楚国の王に栄転し故郷に錦を飾った韓信は、かつて飯を恵んでくれた洗濯婆さん・自分を脅して股の下を潜らせたチンピラ・居候先の亭長を探し出した。洗濯婆さんには命の恩人であるとして使い切れぬほどの大金を与え、チンピラには「お前からは屈辱に耐える我慢を学んだ」として中尉(警察署長)の地位を与えた。居候先の亭長には「お前は途中からオレに飯も出さなくなったな。人の世話をすると決めたのなら、最後まで責任を持って面倒を見るものだ」と言ってわずかな銭を与えるにとどまった。