曖昧さ回避
- 楚(春秋戦国時代) - 春秋時代の国。戦国七雄の1つ。本項目に記載。
- 張楚 - 秦末に陳勝が建てた国。
- 西楚 - 秦が滅びた後に項羽が建てた国。
- 桓楚 - 東晋末期、桓玄が皇帝を称した際に称した国号。
- 隋末に朱粲が建てた国。
- 隋末に林士弘が建てた国。
- 楚(五代十国時代) - 五代十国時代の十国の一つ。
- 金によって、張邦昌を皇帝として建てられた政権。
- 均産教の教主・鐘相が建てた国。
楚(春秋戦国時代)
春秋戦国時代に現在の湖南省・湖北省を中心に主に長江流域の広い地域を制していた王朝。
周の建国からほどなくして史書に登場するが、それ以前の歴史は不明。
周を中心とした黄河流域の中原諸国とは文化が異なり、荊蛮と蔑称されて蛮族扱いであった。
しかし、小麦と粉食を基盤とした中原に対して稲作と米食を中心とした独自の文明があり、
特に絹織物、漆工芸、冶金などでは中原諸国を上回っていたともいう。
自らを蛮族扱いする周王朝の権威を認めず、
(軍事的に周に押されていた時期を除いて)しばしば自ら周王と同格の「王」を名乗った。
荘王の時に全盛を迎え、中原諸国を打ち破って服属させ、大いに領土を拡大した。
しかしその後は国力が振るわず、強大化する秦に圧迫される。
二十代目の懐王は忠臣屈原の諌言を退けて秦に幽閉されて死去し、
名宰相春申君の指導の下に合従軍を率いて秦を攻めるも敗北。
その後は秦の侵攻が続く。項燕将軍が秦将李信率いる二十万人の大軍を破るも、
王翦が率いる六十万人もの大軍が押し寄せ、最後の楚王昌平君と共に滅亡した。
楚の復興(秦末)
秦の始皇帝が倒れ、秦の過酷な法と重い負担に対して各地に反乱がおこるようになると、
民の期待は秦に徹底抗戦した楚の武勇に集まった。『史記』によれば、楚の南公という者が「たとい残り三戸しか生き残れなかったとしても、秦を滅ぼすのは必ず楚である」と予言したと伝わる。
陳勝という兵士が大雨で法の定め通りの兵員輸送ができずに止む無く反乱を起こした時、
陳勝は自分が秦の公子扶蘇であると名乗り、仲間の呉広という男が実は項燕将軍であると称した。
扶蘇というのは、情け深いことで庶民に人気があったが、陰謀に嵌って自決した秦の王子だ。
人気のある扶蘇が実は生きていて指導者となり、
これも実は生きていた楚の名将項燕が武力で支えるという話は大変な期待を集める。
陳勝・呉広の軍勢は瞬く間に大軍となった。陳勝は張楚王を自称した。
陳勝は秦の章邯に敗れて滅ぶが、今度は本当に項燕の子である項梁という人物が衆望を集める。
項梁は懐王の孫である心という羊飼いを連れ出して楚王を名乗らせ、懐王と呼ぶことにした。
これがうまくいき、中原各地の反乱軍もそれぞれ斉王や趙王を立てていたが、
懐王はその盟主と見なされるようになった。
項梁もまた章邯に倒されてしまうが、甥の項羽がその軍を引き継ぎ、
秦を滅ぼして実質的な覇王へと上りつめる。
懐王は義帝と呼ばれて形式的には諸侯の支配者となるが、やがて項羽に殺される。
項羽は西楚の覇王と名乗って劉邦と争うが敗死し、かくして楚の歴史も終わりを告げた。
長江流域も劉邦が建てた漢帝国の支配下となったのである。
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