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曖昧さ回避編集

  1. 趙:中国韓国北朝鮮における姓の一つ。戦国時代の趙国や五代十国時代を統一した王朝では国姓である。
  2. 中国の戦国時代で戦国七雄に数えられた主要国(本記事で解説する)。

「趙」姓の人物編集

実在編集


架空編集


戦国七雄の趙国編集

趙襄子、趙を建てる編集

戦国時代をほぼ通じて天下を競った主要国であり、およそ現在の河北省・山西省に相当する。都は邯鄲(現在の河北省邯鄲市)


春秋時代の大国は、主君の力が衰退し六卿と呼ばれる大臣が勢力を競っていた。

哀公の時、六卿の范氏・中行氏を滅ぼし権勢を奮っていた智瑤(智伯)はライバルの趙無恤(趙襄子)を攻める。しかし趙無恤は智瑤に従っていた韓虎と魏駒を寝返らせ逆に智瑤を討ち取り智氏を滅ぼしその領地を三者で山分けした。その後、晋国は彼らに三分割され趙・の三国が誕生し晋は消滅した。ちなみに趙無恤は節義で名高い豫譲(智瑤旧臣)とのやりとりも知られている。

史学では王朝のうち、この事件以降を戦国時代と呼ぶ。主家たる周の権威が完全に消滅し、天下は七雄と呼ばれる主要国が争って統一を目指すことになったからである。



武霊王、最盛期を築く編集

武霊王の時代に最盛期を迎える。武霊王は当時の北方国境を荒らしていた遊牧民族が戦いやすい服を着て馬に騎乗して戦っていたことに目をつける。当時の中原諸国の軍隊は、戦いに不向きな裾が長く下部がスカート状の服を着て戦車に乗って闘っており、この格好では騎乗して戦うのは難しかった。王は諸臣の反対を押し切って北方遊牧民族の服装を導入し、直接騎馬に乗る騎馬隊を編成する(「胡服騎射」という)。この騎馬隊が威力を発揮して趙国の国土は拡大した。の混乱に際して後の昭襄王を支援して王位につけたりもしている。


その後、武霊王は公子の何(後の恵文王)に王位を譲って主父と名乗って実権を維持していたのだが…


恵文王の安定期編集

公子章が恵文王に謀反を起こして敗れ、主父の館に逃げ込んでしまう。主父はこれを匿うが、恵文王は許さずの軍勢で父の館を包囲した。そして公子章ばかりか主父も3ヶ月もの包囲の果てに餓死することとなった。

恵文王は稀代の戦上手だった武霊王に比べて武略に劣り趙の国力は次第に低下し、父の時代とは逆に力を増した秦に押されるようになる。しかし燕の楽毅や斉の田単といった名将たちが趙に亡命、さらに「刎頸の交わり」で知られる藺相如廉頗趙奢を取り立てたことで人材が豊富になり国力を維持する。


長平の戦いと邯鄲攻防戦編集

前265年に孝成王が恵文王の後を継いでからはさらに斜陽に向かう。楽毅・田単を始め趙奢もこの世を去り藺相如が病に倒れた頃、韓・趙・秦による上党の帰属問題が拗れ秦との戦いに突入。膠着した戦況を打開するために昭襄王は名将白起を送り「長平の戦い」が発生。この戦いで孝成王は秦の宰相・范雎の策で総大将を廉頗から趙括に交代させる致命的なミスを犯す。は到底白起の敵ではなく趙兵は趙括を始め5万の将兵が戦死し、降伏した残る40万人は生き埋めにされてしまった。


こうして都の邯鄲すら脅かされる滅亡の危機となるが、宰相で恵文王の弟に当たる「平原君」趙勝や彼の食客の毛遂の活躍もあり魏の信陵君春申君らの援軍を呼び寄せることに成功し秦軍を退けた。ちなみに白起はこの戦いには参加しなかったが范雎に讒言され最終的に昭襄王から死を賜った。


李牧たちの奮戦と滅亡編集

その後の趙は侵攻してきた燕とも度々交戦する。しかし孝成王の後を継いだ悼襄王は廉頗を老齢だからと退け魏に亡命させてしまう失策を犯す。信陵君や春申君の対秦連合軍にも参加して戦うが秦との差は開くばかりだった。

とは言え廉頗の次世代の将軍に抜擢された李牧龐煖は悼襄王の期待に応える活躍を見せた。特に李牧は匈奴を破って国境を北に広げ、秦の攻勢も撃退して秦領も奪って西方にも領土を広げている。当時秦軍を破った将軍は、諸国でも趙の李牧と楚の項燕(項梁の父、項羽の祖父)だけ、秦の領土を奪取出来たのは李牧のみであったという。


しかし悼襄王の後を継いだ幽繆王は暗愚で李牧を讒言によって殺してしまう。かたや秦を治めるは英主秦王政(始皇帝)である。もはや秦軍を防ぐ方法はなく、紀元前228年、秦の王翦王賁父子や羌瘣の軍に攻められ、邯鄲も陥落して滅亡した。李牧の死からわずか三ヶ月の出来事だった。


秦末~楚漢戦争期の動向編集

中国統一を果たした始皇帝の死後、趙高の暴政や陳勝・呉広の乱で秦が混乱し項梁・項羽・劉邦らが次々と挙兵する。かつて信陵君の食客だった張耳と友人の陳余は紆余曲折あり趙王の子孫趙歇を擁立して趙を再興するが秦の名将章邯に首都・邯鄲を破壊され鉅鹿に逃れるが包囲されてしまう。その後、趙の援軍に来た楚軍の総大将項羽は章邯と決戦。楚が勝利し大将の王離(王賁の子)は捕えられ章邯は降伏して趙は解放された。秦滅亡後、今度は張耳と陳余が互いに争い張耳は旧知だった王劉邦の元に亡命。趙も一度は劉邦に味方したが彭城で劉邦が項羽に大敗したことや張耳の件などで劉邦から離反。のち韓信や張耳の軍に攻め込まれ陳余は戦死、趙歇も処刑され趙襄子以来の趙は今度こそ完全に滅びてしまった。


関連タグ編集

中国史 春秋戦国 

キングダム 項羽と劉邦

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