概要
長平の戦いとは、春秋戦国時代に起きた戦争のこと。
秦国将軍の白起が趙国の捕虜40万人が生き埋めにされた事でも知られる。
期間は紀元前262年~紀元前260年
将軍は秦側が王齕、白起。
発端
当時の秦は強国として各地に侵攻を繰り返していた。
野王(地名)を落とした結果、韓の北方である上党郡が切り離され飛び地となってしまった。
韓は和議のために、上党郡を秦に差し出そうとしたが、当時の郡主が拒否。
韓の王は郡主を交代させたが、上党郡の民衆は秦に降らない様に郡主に陳情した。
結果として、趙に上党郡を差し出す代わりに、趙と韓が共同で秦に対抗する案を出した。
趙では、この申し出に議論が続けられた。
主に「秦に戦争の切っ掛けを与えるだけなので献上を拒否するべきである。」とする平陽君の意見と、「血を流さず、一粒の金も捨てずに領地が得られるのに、何故悩むのか。献上を了承するべきである。」と言う平原君の意見であった。
(中国では県より郡の方が大きいので、郡を得られるのは結構な利益である。)
趙の孝成王は悩んだ末に、上党郡に兵を送り郡を接収した。
これに秦は怒り、王齕を将軍とした軍を編成し趙に攻め込んだ。
孝成王は老将の廉頗を総大将に任命し、長平城に派遣した。
そして、長平の戦いは始まった。
序盤の戦い
長平では幾度か秦軍と趙軍がぶつかった物の、秦の勢いに適わず趙軍は全て敗れた。
廉頗は数で劣る物の精強な秦軍との直接対決は避け、籠城した上での持久戦へと移行。
秦の疲労と士気の低下を計った。
いかなる挑発にも出てこない上に、二年間も動きが無い中で廉頗の予想通りに秦軍に疲労と士気の低下が見られる様になった。
戦の素人を将軍に
この状況を良しとしない秦の宰相范雎はスパイを送り、秦に有利になるように情報を流し始める。
それは「秦は名将の趙奢の息子である趙括が総大将になるのを恐れている。既に老人の廉頗は与しやすい。」と言う物であった。
趙奢は趙の将軍であり名将だったが、既に故人であった。
趙括は趙奢の息子であり、幼少期から兵法書を読み、成長した後は兵法論で父と議論した上で、趙奢を論破する事もあった。
この為、自身も「大兵法家」としての意識があったとされる。
反面、趙括はそれまで戦には出ていない、机上だけの兵法家であり、また若く経験も足りなかった。
この為、趙奢の趙括に対する評価は「戦とは生死がかかった物であるのに、括はそれをわからずに無造作に論じている。将軍に任用されなければ良いが、任命されれば括によって趙軍は必ず破滅する。」と言う物であった。
つまり、大兵法家として噂になっているが、戦に出た事のない素人を将軍に仕立てる策であった。
この策は功を奏し、孝成王も数で勝るのに積極策に出ない廉頗に不満を持っていた事もあり、総大将を天才兵法家の趙括に交代させる様に命じた。
これを知った趙の重臣、藺相如は病により死の淵にあったが、無理を押して王に謁見し趙括の任命を取り消すように求めた。
曰く「趙括は兵法書を丸暗記しているだけの未熟者。実戦で臨機応変に動く重要さを理解していません。琴柱を琴の胴に膠で貼り付けて弾くようなものです。」と上申したが、孝成王は聞き入れなかった。
(琴柱を膠で固めると、音の調整が出来なくなってしまう。)
その後は何と趙括の母親も参内し、趙括の総大将任命を取り消す様に頼み込んだ。
「括は人の命を軽んじており、将軍の責任には耐えられない。」と。
息子の栄達を拒否するの疑問に思った孝成王が趙括の母に問うと、「わたくしは趙奢の妻として将としてのあるべき姿を見てきております。夫の趙奢は常に奢らず、自ら酒食を数十人の部下にすすめ、友として親交を結んだのは数百人に上り、頂いた恩賞は全て部下に分け与え、出陣の命を受ければ家の事は省みずに戦の事だけを考えておりました。一方、息子の趙括は部下へは威張り散らし、下賜された物は全て自分の物とし、田畑を買いあさっています。こんな様では趙奢にはとても及びません。」
そう言った物の、一度出した任命を取り消せないとして、やはり取り消しの願いは受け入れなかった。
「どうしても趙括を用いられるなら、いかなる結果でも一族に罪をおよばさない様に願います。」との願いは認めた。
あっという間の結末
趙括は廉頗と総大将を交代すると、兵法書通りに事を進め、全ての配置を兵法書通りにした。
また、廉頗の戦法を支持する者は更迭した。
この間に秦は、王齕から歴戦の白起に総大将を交代していたが、徹底した情報封鎖でそれを趙軍に知られる事は無かった。秦軍の陣内であれ、白起が来た事を話した者は斬首とされた。
趙括は数に劣る秦軍を殲滅せんと大攻勢に転じた。
対する白起は囮の部隊を戦わせ、敵わないと見せて退却させると言う偽装撤退戦術を使用した。
血気盛んな趙括は、それを見て更なる突撃を命じたが、白起は伏せておいた二万五千の兵で退路を遮断。
そして趙の軍は分断され、完全に包囲されてしまった。
正面の突破も不可能と悟った趙括は、その場で塁壁を築き陣を敷き、応援部隊の到着を待ったが、秦軍は完全に物資や応援部隊の経路を断っていた。趙の軍は兵糧攻めに合う事となってしまう。
趙の兵は完全に飲まず食わずの状況に置かれ、時に殺し合い仲間の肉を食べたと伝わる。
四十六日間もこの状況にあった為、陣では趙括に対する怨嗟の声で満ちていた。
趙括もこのままでは飢え死にするだけと、最後の頼みを賭けて全軍での突撃を仕掛けるが、既に半死半生の兵士ばかりの趙軍ではまともな抵抗は出来ず、趙括も矢の雨を受けて討たれてしまった。
総大将が討ち死にした趙兵たちは40万人全員が投降した。
しかし、秦には40万人の捕虜を食わせていくだけの食糧は無い。
仮に帰せば恨みを持って秦に向かってくる。
白起は仕方無く捕虜に堀を掘らせ、一定の深さまで掘ったら食料を与えると言ったが、ある程度掘った所で上から土をかけていき全員を生き埋めにした。
既に半死半生の趙の兵士は這い上がる事も出来ずに埋もれていった。
ただし少年兵240名は見逃され、国に返されたと言う。
最終的な結果として、趙は惨敗し、その国力を大きく傾かせる事になった。
この長平の戦いから32年後に趙は滅びる事となる。
戦後
この大敗に孝成王はショックを受け、即座に和睦のために使者を出した。
秦の宰相である范雎は、白起の手柄が大きすぎる事になる事を警戒し、昭襄王に「戦いは長くなるので、兵を退かせて休ませるべき」と献策をした。
それを受け入れた昭襄王は兵を引かせ、戦いは終わった。
この時、范雎は「白起が趙を落とし、秦王が帝王になった際、あなた(范雎)様は白起の下に立つ事になる。」と趙の説客に説かれたからとも言われる。
しかし、この後に起きた趙との戦いではこの戦いでの虐殺を引き金として趙の士気は高くなってしまい、中々落とせなかった。
また、白起も范雎の決定に不審を抱いたために、病を患ったとして屋敷に引きこもってしまう。
(生き埋めになった趙兵の死を無駄にする行為だったため憤ったともいわれる。)
結果として、この戦が名将である白起の最後の戦いとなってしまった。
白起は続く戦いで王の命令でも出兵せず、更には不興を買った為に、自決用の剣を送られて自決する事となった。
この時、白起は「私は秦のために戦ったのだ、敵に怨まれこそすれ王に怨まれるのは心外である。」と憤った。「だが、私は死んで当然だ。長平の役で、四十万の兵を生き埋めにした事だけで死罪に値する。」と言った後に自決した。
生き埋めの真実
長らく長平の生き埋めは真偽が疑われており、流石に大量の人を生き埋めにしたのは伝説である、と言う見方が多かった。しかし、長平の周辺を掘った際に大量の人骨が見つかっており、その真相を裏付ける事に繋がった。人骨は武器によると思われる損傷が多々見られており、それまで戦っていた者たちが大量に埋められた事を意味する。しかし、捕虜が死んでから埋められたのか、埋められて死んだのかは判明せず、また関係の無い捕虜の虐殺なのかもしれず判然としない事は注意すべきである。
戦死者の集団墓地と言う可能性もある。
また、数に置いても「40万」は多すぎるのでは?と言う意見は昔からある。
多くても20万、大体は10分の1の4万人位では無いかと言う意見も多い。
事実、間を置かずに秦に攻め込まれた際に趙の軍は建て直しており、秦の軍勢を押し戻している。
これは歴史書が記される際、起きた出来事から時を経て書かれる事、また伝聞が伝わる際に数字に尾ひれがつく事も多いためで、そこに40万と記されているから、40万と言う数字が真実とは限らないのである。(ただし、たまに現実味がある数字が出てくる事もあるので難しい。例えば一人で「千人斬った」は盛られているかもしれないが、「十数人」なら不可能ではない、など)
始皇帝への影響
Pixiv的に重要なのは始皇帝こと政の人物形成に大きな影響を与えたということである。
始皇帝の父親、荘襄王こと子楚は長平の戦いの時の王である昭王の息子、安国君の数多くいる息子たちの一人で趙に人質として派遣されていたが、いつ殺されても問題ない極めて軽い立場の人間だった。しかし、昭王の後継である安国君の息子たちの中に主だった人物がいないという事に目をつけた商人呂不韋によって子楚は秦王になるが、趙国における子楚と、そこで生まれ育った政の立場はあまりよくないものだった。秦が絶えず趙に攻めるのだから、趙の人々が秦の人間に好感情を抱けるわけがない。
長平の戦いから続く、秦の邯鄲包囲によって子楚は処刑寸前にまで追い詰められはしたものの脱出には成功したが妻子も逃がす余裕はなく、政とその母親は状況が落ち着くまで身を潜めて逃げるしかなかった。陳舜臣はその時の経験によって始皇帝が怜悧な人間になってしまったと推測している。いずれにせよ、趙国において政の待遇はあまりよくなかったのは事実らしい。
長平の戦いは、趙人が秦人に憎悪を抱いたと思わせる象徴的なイベントであったため、キングダム・終末のワルキューレ・達人伝といった始皇帝が出てくる創作では、長平の戦いで趙人が大量殺戮されたことから秦の王族ということで周囲からの憎悪を受けたということにされ、闇落ちしかけるが親身になってくれた人のおかげで救われた、逆に闇落ちをして人間不信の塊になった、趙から秦に移動する時に襲撃を受けた、ということが生い立ちとして語られるというパターンになっている。