概要
紀元前312年、燕の昭王が斉に対抗するために、臣下の郭隗の献策を元に有能な人材を諸国に求めたとき、それに応じて魏の将軍の楽毅や斉の陰陽家の鄒衍と共に燕に移った。以後、昭王から燕王喜まで70年間5代の燕王に仕えた(『史記』「燕召公世家」昭王元年「楽毅自魏往,鄒衍自斉往,劇辛自趙往,士争趨燕。」)。
燕王喜十二年(紀元前242年)、趙将の李牧により武遂と方城が奪われる。しかし、燕王喜は、趙がたびたび秦に敗北し、さらに既に名将の廉頗が出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て、劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した。劇辛は趙にいたころ、龐煖と親しくしていたため、「龐煖は与(くみ)易きのみ(龐煖はまさしく与するのに容易い人物だ)」と答え、趙に攻め入った。しかし、燕軍のうち二万が捕虜になるという大敗に終わり、劇辛もまた戦死した(『史記』「燕召公世家」今王喜十二年 「十二年,趙使李牧攻燕,抜武遂・方城。劇辛故居趙,与龐煖善,已而亡走燕。燕見趙数困于秦,而廉頗去,令龐煖将也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易与耳。」燕使劇辛将撃趙,趙使龐煖撃之,取燕軍二萬,殺劇辛。」)。
『史記』「孟子荀卿列伝」によれば、趙には名家の公孫竜の堅白同異説と並ぶ学説として、『劇子之言』(『劇先生の言説』)というものがあったとされる(『史記』「孟子荀卿列伝」。「趙亦有公孫龍為堅白同異之辯,劇子之言。」)。これを『漢書』「芸文志」に記載される法家思想の書物『処子』(旧字体では『處子』)九篇と同一の書籍とする説がある。いずれの書籍も散逸しており、正確なところは不明。
フィクションにおける劇辛
キングダム
燕大将軍。
かつて楽毅と共に燕を復興させた救国の英雄とされる。
元々は趙人であり、金目当てで燕へ移住。
蔡沢に趙に居れば、三大天の一人となっていたと評されていた。
若い頃に龐煖と同様に「武神」と称する者達を何人も倒すほどの武勇を持つ。
楽毅を超えるべく楽毅の戦術を外聞を気にせず徹底的に見て盗んで学んでいた。趙燕戦争で、侵攻してきた趙軍を迎撃。李牧の策略を見破り本陣にまで迫り、龐煖と一騎打ちするも想像を超える龐煖の力に敵わず「偽者」と言い捨てられて討たれた。
史記(横山光輝版)
「先ず隗より始めよ」を実践した昭王の元に集まった武将の1人として登場したのみ。