概要
中国の春秋戦国時代において基本的に「孫」の姓を持つ人物の尊称、あるいはその著作。
- 春秋時代の武将、孫武(スン・ウ)
- 孫武の子孫とされ中国の戦国時代の武将、孫臏
- 戦国時代末の思想家・儒学者、荀子の漢代の尊称
この項目では孫武の著作とされる兵法書に関し説明を行う。
孫子とは
孫子とは、古代中国の兵法家、及びその手による兵法書であり、兵法書は兵法の代表的古典とされた武経七書のうちの一つである。
人物
孫武(スン・ウ)
この人物に関しては史記には、斉国の大夫であった田氏の出であるが、内紛により呉にのがれ、兵法書を作成、その後闔閭に登用を願った。その際に、宮女を軍隊にするよう言われるが、孫子は女達は命令するが、女たちは笑うばかり、言うことを聞かない。そのため孫子は隊長であった王の妾二人を殺害して、軍法を守らせ、女達を軍にすること成功して、将軍として仕えた。
現代の価値観だと孫子を非道な人間と思うが、当時は生きる死ぬかの戦国時代であり、人権も何も保証されてない時代である。軍法を守らなくては、軍が滅び、そして国が滅び、多くの民衆が奴隷になるということを考えれば、このような厳しい対応をやむ得ないものである。
名声を得たものの、その子である夫差に賜死させられたとも、自ら隠居して兵法の改良に後世を費やしたともいわれる。
孫臏
この人物の父親等は伝わっていないが、孫武の子孫であるとされる。魏に仕えていたライバルの陰謀により、犯罪者として足を切断され、顔に入れ墨を入れられるがその後斉に脱出、有能さによりついに軍師となり、斉の全盛期を支えたとされ、特に有名なのが馬陵の戦いと呼ばれる戦いである。この人物も後半生が不詳となっている。
荀子
この人物は諱は況といい、紀元前4世紀末ごろ生まれ、50過ぎに斉に仕えるも讒言により退けられ、その後楚に仕え、任を辞した後も蘭陵に残る。この人物および門人の研究はのちに孫卿新書としてまとめられるが、これらは失われ、これを基に注釈を加え編集された荀子が知られる。この書籍は孟子の性善説に対抗する考えである性悪説で知られる。
兵法書
現在残っている「孫子兵法」の有名なものは曹操が注釈をつけたものである。しかし彼が中国では嫌われ者であることや、過去の文献にある二種類の兵法書との構成の差異などのせいで、「孫子という書籍は曹操が箔をつけるために創作した架空の書籍、すなわち偽書である」などというイチャモンもつけられてきた。しかし1972年に前漢時代の墳墓が発掘、孫子兵法を含む各種兵法に関する竹簡が発見され、内容が一致したことによりこの疑惑は晴れた。
現在では、春秋時代に呉に仕えた孫武の記述した呉孫子兵法、その子孫とされ戦国時代の斉に仕えた孫臏の記述した斉孫子兵法あるいは孫臏兵法の二種類の兵法書が存在し、その後孫武によるもののみが伝わった、という考え方が一般的である。
特徴
その内容を知らない人々からはしばしば一つの局所的な戦いに勝つ為の「戦術」の書籍と思われるが、実際は戦争全体で勝つ為の「戦略」の書籍である。
戦略の軍事本は多数にあるが、今なお孫子が世界各地に古から現在まで至るまで読まれるのは、「人間の思考」を重きに置いている本だからである。
要点
戦争に対する認識が未熟で、「勝敗は天運次第」と言われた春秋戦国時代の当時、徹底的なリアリズムによってそれを否定した事が彼等の功績であるとされ、以下にその一例を記す。
- 「百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり( 全ての戦いに勝利することが最善なのではない。戦わずして相手に負けを認めさせ無用の被害を防ぐことこそが最善の方法なのである )」
- 「算多きは勝ち、算少なきは勝たず、しかるをいわんや算無きにおいてをや( 常に勝算の多い方が勝ち、勝算の少ないほうは負ける。ましてや勝算を考えぬ者の結果は言うまでもない )」
- 「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し( 敵の得意・不得意を知り己の得意・不得意を知っていればどれだけ戦っても負けない。敵の得意・不得意を知らずとも自らの得意・不得意を知っていれば五分の戦いにはできる。敵の得意・不得意も知らず己の得意・不得意も知らぬようでは戦うたびに負けるだろう )」
以上のように、徹底的に「戦わないこと、もし戦っても兵を失わぬことこそが最善である。もし戦う場合には、事前の計算や情報こそが大事である」といった内容は当時において画期的であった。
そのほか
- 三国志の呉の孫堅一族はこの人物の子孫とされる
- 武経七書宋の時代に定められ、そのほかの書籍は戦術書の意味合いが強い呉子、太公望が記述したとされる六韜と三略、現在残存する部分は戦闘における礼儀を記述したが、おそらく戦闘の記録なども記述していたと思われる司馬法、偽書説があったものの現在では大量に加筆されているだけと分かった尉繚子、古代から唐までの戦略家の事績をまとめたもので成立が唐代末から宋代とこれだけ歴史が新しい李衛公問対である
- 曹操が孫子兵法に注釈を加えたのは、それ以前に加筆に加筆を重ねすぎて肥大化し過ぎてしまった同兵法を整理し、余計余分を省き簡潔にするためである。なおこれは三国志演義では「孟徳新書」という名前で登場している
- それ以前は多数の異本や解説編が存在し、解説が多すぎてわかりづらいものであったといわれ、本編13に対し解説書が69もあり、結果「82巻、図9巻」という膨大な情報量であったといわれるためである
- 武田信玄で有名な「風林火山」は、子の兵法書の一文「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆の如し」を由来としており、フルでは「風林火陰山雷」となる
- 極めて有名な「兵は拙速を尊ぶ」という文は存在しない。「長期戦は国力を削ぐので良くない」という文脈で「兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり」という文はあるが、「多少拙くとも早急に行動せよ」などという趣旨の文言は存在せず、むしろ「戦争の結果は準備次第だから十二分に備えろ」というのが孫子の趣旨である。
フィクションにおける孫子兵法
ぶっちゃけると便利な小道具、兵法セリフ元扱いされており、現実世界を舞台にしたものから架空世界を舞台にした作品まで、おおよそ兵法をネタにしたセリフや場面ではかなりの確率で本書からの部分的引用がシリアスもギャグも問わず行われている。
近年では孫子兵法をテーマにした作品として臏~孫子異伝~なども存在する。
現代における実用性
「孫子兵法」の内容の大筋は現在でも通用するとされ、ビジネス、自己啓発用にそれなりの分量を引用した書籍が多く存在する。またアメリカ合衆国の士官学校などでは未だに基礎として教えられているという。