曖昧さ回避
韓姓の人物
戦国七雄の韓
紀元前403年から紀元前230年まで存続した。
趙、魏と共に晋を倒して成立。現在の河南省の一部などを領域にした。法家思想家の韓非子や高名な軍師である張良などを輩出した。
歴史
晋の公族で桓叔の庶子の姫万は晋の武公(在位:前678年~前677年)から韓(現在の韓城市)を与えられ、氏を韓氏とし、韓万(韓武子)を名乗った。
紀元前455年、韓万の子孫で晋の卿である韓虎は智瑶、魏駒と共に趙無恤のいる晋陽を包囲・水攻めする。
紀元前453年、趙無恤は魏駒と韓虎に使者を派遣し「私が滅ぼされた後は貴公らの番であろう」と調略したため、韓氏・趙氏・魏氏で智氏を滅ぼし、晋は三国に分かたれた。
紀元前403年、韓は周王室から正式に韓侯として認められた。建国初期は隣国の鄭との争いが続く。
紀元前375年、韓が鄭を滅ぼし国土を併呑。韓は鄭の都で交通の要衝として栄えていた新鄭に遷都した。
紀元前355年、釐侯(昭侯)が申不害を宰相に起用。申不害は富国強兵に努め韓は最盛期を迎えた。
紀元前333年、釐侯が死去。韓康が後を嗣いで韓侯となった。
紀元前337年、申不害が死去。秦の侵攻に悩まされるようになる。
紀元前323年、韓康が王号を称し宣恵王と名乗る。
紀元前246年、大規模な土木工事で秦を疲弊させようと技術者の鄭国が送り込まれ、涇水と洛水を結ぶ灌漑用水建設を秦王政に説き、工事が開始される。この用水は後に鄭国渠と呼ばれ、皮肉にも鄭国渠がもたらした豊かさが諸侯を併呑する秦の経済力につながった。
紀元前233年、公子韓非(韓非子)が使者として秦へ行く。秦王は韓非を気に入って登用しようとしたが、李斯が王に讒言したため牢に入れられ、李斯に自決を促され毒薬を飲んで死んだ。
紀元前230年、秦軍に新鄭を落とされ、韓王安は捕虜とされ、戦国六国の中で最も早く滅亡した。
紀元前226年、新鄭で韓の元貴族たちによる反乱が起きたが鎮圧され、韓王安は処刑された。