太公望の国
斉とは中国の周王朝が封じた諸侯の一つ(斉公)である。領土は概ね現在の山東省に一致する。首都は臨淄(現在の山東省淄博市)。
紀元前1046年、周王朝建国において活躍した軍師、太公望と呼ばれた呂尚が営丘(後の臨淄)の街周辺に領地を与えられて成立した。春秋時代に周本国が衰退すると、第15代の名君桓公が出現し、名宰相管仲や鮑叔らの補佐を得て天下の覇者として君臨した(後に春秋五覇の一人に数えられる)。その後継者の時代には家臣たちの力が増大し、互いに争うようになって斉公の存在は名目的なものとなっていく。
田氏による簒奪
戦国時代に入って、ついに家臣間の争いに勝利した田氏が紀元前386年に周王から諸侯に任ぜられ、太公望の家系最後の康公を滅ぼして簒奪する。田氏は衰退した周を見限って自ら王を名乗るようになった。田氏の第3代威王は名将孫臏(いわゆる孫子と呼ばれる兵法家の一人)などを登用し、臨淄には人材育成の為に天下の学者たちが集められて稷下の学士と呼ばれた。第5代湣王は名宰相孟嘗君に補佐されてさらに国土を広げ、西方の秦と天下の覇権を競った。宋を滅ぼし、燕の領土を半分近くも奪取し、楚の軍勢も破り、韓や魏と共に秦軍を破って函谷関にまで攻め込んだ。だがあまりに周辺諸国の全てを敵に回して打ち破ったため、ついには燕の将軍楽毅が率いる諸国連合軍の反撃によって滅亡寸前に追い込まれる。臨淄は陥落し、僅か2城を残した全土が連合軍の占領下となり、湣王も部下に殺されてしまった。楽毅の失脚によって滅亡だけは免れるも国力は回復せず、やがて紀元前221年には秦の始皇帝が派遣した将軍王賁によって滅ぼされた。
秦末の復興と滅亡
始皇帝の死後に各地で反乱が起こると、斉でも田氏の一族が斉王国を復興する。一族の内紛を田栄が治めて斉王となるが、項羽に滅ぼされる。しかし斉の民は各地でゲリラ戦を展開して項羽を苦しめ、田栄の子の田広が斉王、弟の田横が相として劉邦の攻勢に追われる項羽を退却させる。劉邦の軍勢は使者酈食其を派遣して斉との同盟を取り纏めたが、劉邦の将韓信が同盟交渉を無視して斉国に攻め込み、これを滅ぼしてしまった。