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項羽

こうう

中国の秦末期の武将。二つ名は「西楚の覇王」。覇王の語源となった人物。
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生涯編集

姓は、名は、字(あざな)が

一般的には項羽の名で知られている。代々の武将であった家系の出身。祖父は秦の李信率いる二十万の大軍を破り、最後の楚王・昌平君と共に楚の滅亡まで戦い散った項燕将軍。


紀元前2世紀、始皇帝によって初の中国統一王朝・が誕生するが、その圧政に亡国の民衆の不満が爆発。陳勝という一兵士が反乱を起こした(これが中国史上初の農民一揆で、陳勝・呉広の乱と呼ばれる)ことで一気に秦打倒の機運が中華全土に広まり、各地で秦に反旗を翻す勢力が現れる。その中でもその中心勢力の一つを束ねたのが先述の項燕の遺児の一人・項梁であり、項羽は項梁の甥に当たる。


項梁が王家の子孫を擁立して懐王とし、を再興すると沛の劉邦や九江の英布らを従え配下とし項羽は副将軍格となり進軍する。しかし、途上の定陶で陳勝を滅ぼした秦の将軍・章邯の強襲により項梁が討たれたため、叔父に代わって反乱軍のリーダーとなる。そして、秦の主力であった章邯の軍勢を鉅鹿で破り、反乱軍側の勝利を決定づけた。ただし、秦の本拠地である都を落としたのは劉邦であった。


その後は西楚の覇王を名乗り、中華全土の実権を握るが、やりかたがあまりに身内びいきで強引だった為、反乱が続発する(この時行われた杜撰な土地の配分は、項羽の性格だけではなく劉邦らが秦の租税記録などを全て持ち逃げしたことも起因している)。劉邦も一度は項羽によって漢中に追いやられるが、反乱勢力の中心となる。項羽はこれを幾度となく撃破するものの、補給などを怠り個人の武勇のみを頼みとしたため、戦略・外交の面では逆に追い詰められていった。


遂には垓下の戦いにおいて、自軍以外のほぼすべての国の軍に包囲される。なお、四面楚歌の言葉が生まれたのはこれが語源である。それでも項羽は城から打って出て江東へ脱出するため漢軍の包囲網を突破して長江沿いの烏江に至るも、灌嬰率いる漢の騎兵隊の追撃を受け最後を覚悟する。残った28騎の兵と共に劉邦軍に攻撃をしかけて数度撃ち破り、一人で数百人を討ち取るも力尽き自刎して果てた。


項羽が自害した後、懸賞金ほしさに目がくらんだ漢兵たちによって凄まじい同士討ちが起こり、遺体も切り刻まれ、五つに分かたれるという無残な姿になってしまった。ライバルとして何度も戦い続けた劉邦は遺体を持ってきた5人の将兵たちに褒美を五等分して渡した。一方で、英雄項羽をそのままにしておくにはしのびなく、彼の霊魂を慰めるために、項羽が楚において魯公に封じられていたことから魯公の礼を以って祠を建て手厚く弔った。壮烈な時代を作り上げた英雄に対する、劉邦の手向けであった。

享年31歳。


評価編集

強い」。それですべてが表わせるほどであり、それが最大の長所、かつ欠点となった。敵と見なした相手に対する行動は粗暴極まりなく、反抗した敵兵の捕虜20万を丸ごと生き埋めにしたり、制圧した拠点で住民ごと皆殺し、神輿でかついだ義帝・懐王を用がなくなったからと僻地に追いやりその途上で殺害、など蛮行が多く見られた。公人としては凶行が多く粗暴だったが、私人としては礼儀正しく情の厚い漢であり、彼のために命を捨てて戦う部下も多かった。


戦にかけては紛れもない天才であるが、自らの才能を信じて疑わないところがあった。ために普段は好漢であったにもかかわらず人の忠告や意見を軽んじて無視することが多く、これに愛想を尽かして多くの人材が彼の元を離れた。項羽が挙兵してからずっと側で支え続けた忠臣であり、項羽本人も亜父(実父に次ぐ者)と呼んで慕った范増とも最後は決裂してしまい、最終的に彼の元にはこれといった人材が残らなかった。ライバルである劉邦の元には多種多様な人材がひっきりなしに集まっていたのとは対照的である。

劉邦の配下である陳平は項羽の破滅について以下のように語っている。


  • 「項王の人柄は恭しく、人を愛します。清廉で礼節を好む人材が彼の下に集まってきます。しかしながら、功労に対して爵位や領土を与える段になると、途端に離れが悪くなり与えることができません。これが原因で人材が離れていきます。これに対して、大王は傲慢な上に品がなく、清廉で礼節を好む人材は寄り付きません。しかしながら大王は人に気前よく爵位や領土を分け与えるので、恥知らずな人材も、漢に多く集まってきております。」

陳平も項羽に仕えていたが、項羽の傲慢さに辟易し、職を辞して劉邦の元に寝返った。劉邦に仕えてからは名参謀として評価を得ている。劉邦からは必ずしも信用されていなかったが呂雉亡き後、呂一族を滅ぼし漢王朝の安定に寄与している。


項羽は個人の武勇が凄まじく項羽と一対一で戦って勝てる武者など存在しなかった。戦術家としても傑出した才能の持ち主で戦場では敵無しの強さを誇り、あの韓信でさえ真正面からの戦いでは全く歯が立たないレベルである。しかし良かれ悪しかれ項羽の能力は戦術面に特化しており、政治・経済といった戦略的な知識に乏しかった。あまりにも強かったがために物事を武力で解決しようとするきらいがあり、結果としてさらなる反発を招き寄せてしまった。


一方、劉邦とは対照的に政治家としては劣っていた上に個人としてツメが甘い部分もあった。劉邦をいわゆる「鴻門の会」で殺さなかったことが、後に文字通り身を滅した事になる。自我が強すぎた為に、自分以外の人間を侮り過ぎたのが命とりとなった。その傲慢さから韓信や陳平といった人材を多く手放すことになり、政治家としての寿命を削る事になった。

司馬遷も「領土も持たない状況から決起して3年で秦を滅ぼし、覇王と名乗るまでになった、いまだかつてなかった事業だ」としながら「武力で天下を征服・管理しようとして5年ですべて滅ぼしてしまった、学ばなかったせいで自滅したと言わざるをえない、現に最後に至っても天が自分を滅ぼすのだと言っている。思い違いも甚だしい事じゃないか」と評している。


しばしば後漢末期に活躍し「三国志演義」でおなじみの呂布とどちらが強いかで論争になるが、個人としての武勇はともかく、中国全土を事実上支配下においたという点のみで見ても呂布を上回っていることは確実であろう。しかし、史上初の大帝国の混乱・崩壊期に叔父の軍をそのまま受け継げた項羽と、それよりもはるかに軍制や地方勢力が強固であった中で丁原董卓の一部将に過ぎず、独立後は本拠地確保にも苦労した呂布とでは活躍した背景も時代も根本的に違うので、比較は難しい。


凄まじい才能を持ちながら人間的に未熟な部分が多く、最終的にライバルであった劉邦に敗れてしまったが、その波瀾万丈な人生は後世の人を惹き付けてやまない。


創作作品において編集

小説・漫画編集


いずれの物語とも項羽の死で一区切りとなっている。項羽と劉邦の戦いのみを焦点を絞った作品が多く、その壮烈な最期から、この時代を題材とした物語の事実上の主人公もしくは最大のライバルとなっていると言って良い。


ゲーム編集

光栄による作品。

能力はオールマイティ。圧倒的な武力を活かし一騎打ちで大活躍出来る。ただし思わぬ不覚と領国統治に要注意。続編は登場していない。

コーエーテクモによる作品。

時代を飛び越えて登場していることがある。能力値は当然武力が高く、前述の呂布を上回ってる事すらある。それ以上に部隊の戦闘能力は恐ろしく高く覇王の二つ名は伊達ではない。

コーエーテクモによる作品。

こちらも時代を飛び越えて登場していることがある。登場すれば呂布以上の難敵でありまさにラスボス。


TYPE-MOONの作品。

なぜか半人半馬のロボットのような姿となっている。

これには一応、理由が存在するのだが……

詳しくは項羽(Fate)の記事を参照に。(※ネタバレの可能性あり。)


エピソード編集

幼少期

楚の名家出身であった項羽は楚滅亡とともに叔父の項梁とともに流浪を余儀なくされた。両親と早くに死別した項羽にとっては項梁が親であり師匠であった。項羽は幼少の頃から文武ともにぬきんでていたが、学問は「文字は自分の名前が書ければ十分」、武道は「いくら強くても一人一人の戦いに意味はない」として放り出してしまった。項梁が「お前は結局何がしたいんだ?」と問うと「大勢の軍を率いる術を知りたい」と答えた。それを聞いた項梁は項羽に孫子などの戦術指南書を与えて教育を施し、これが英雄項羽の下地になった。しかし、大略を掴んだあとはこれもそれ以上学ぼうとはしなかった。

とは言え、戦の強さだけではなく歴史に残る詩を残したり、一人で平然と数十人を切り殺すなどその怠け癖からは信じられないようなリアルチートぶりを見せつけている。


始皇帝を見て

項羽と劉邦は二人とも世に出る前に始皇帝の行幸を見ていた。若い項羽は始皇帝を見て「奴を倒して俺が取って代わってくれる」と叫び、一方の劉邦は「男と生まれたからにはああいう身分になりたいもんだ」とただ羨ましがった。後世の創作とも言われるが、二人の本質を端的に表したエピソードであろう。


背水の陣(破釜沈船)

成人した項羽は2メートルを越す大男になり、その武勇から一目置かれる存在であった。やがて秦への反乱の機運が高まると兵を起こして立ち上がり、瞬く間に一勢力を築き上げた。秦最後の名将章邯の前に各国合同反乱軍が足踏みする中、項羽は凄まじい行動に出た。秦軍に対峙する前に食料物資を3日分だけのこしてあとは全部放棄してしまったのである。3日以内に勝たねば全滅という状況に項羽軍は狂うように奮い立ち、怒濤の勢いで章邯軍を蹴散らしてしまった。


彭城(睢水)の戦い

秦の滅亡後、反乱軍の諸将が各地に国を作った。項羽は覇者となり、劉邦は僻地漢中の王(漢王)となった。項羽が斉の各地で起こった反乱の鎮圧に追われている隙に、劉邦は項羽に不満をもつ各国と同盟して50万人の大軍となり、項羽の本拠地彭城を落とした。同盟軍はこれで項羽も終わりだろうと連日の酒宴に浮かれるが、項羽は手勢から僅か3万人の精兵だけを集めて、彭城を西側から夜明けに急襲し連合軍を散々に破った。項羽は余勢を買って連合軍を追撃し睢水に追い詰め10万人余りを討ち、睢水の水が堰き止められるほどであったという。


こうして、項羽によって烏合の衆でしかなかった50万人の連合軍は完敗し、劉邦は子女を抱えて御者一人だけを供に逃れ去ったという。


四面楚歌

ライバル劉邦に追い詰められた項羽は最終的に垓下の地に立てこもる。項羽の武力は凄まじく一時期は漢軍大元帥・韓信の本隊の喉元に迫るほどの猛攻を見せるが、韓信の将である孔熙と陳賀に跳ね返され軍は壊滅状態となり城に撤退する。やがて楚軍の周りから楚の歌が聞こえはじめ、戦意を喪失した楚兵たちはその大半が漢軍に投降し、鍾離昧や季布といった部将たちも戦線離脱してしまった。さすがの項羽もこの状況を嘆いた。

楚歌を歌わせたのは韓信とも張良とも言われるがはっきりとはしておらず、いずれにせよ落魄する楚軍と項羽の運命を象徴する故事である。


覇王別姫

自身の運命を悟った項羽は愛姫・虞美人と別れの杯を交わし項羽は『垓下の歌』を歌った。


力は山を抜き、気は世を覆う

時に利あらず、騅(すい)ゆかず

騅ゆかざるを如何いかんとすべき

虞や虞や汝を如何せん


項羽は虞美人を死なせるに忍びず劉邦に下るよう勧めるが、虞美人は拒否し項羽から剣を拝領しその剣で自害した。そして、項羽は最後の戦いに挑むことになる。


烏江亭

烏江に至るも項羽は気が変わり渡江しなかった。そして項羽は残りの兵と共に追撃してきた漢軍と戦うも最期の一人となる。項羽は追っ手の敵兵たちの中に同郷で知り合いでもあった呂馬童を見つけ、彼に「我が首には多くの金と土地が懸賞としてかけられていると聞いた。ならばそれは旧知のお前にくれてやろう」と言い残し自刎して果てた。


関連タグ編集

  武将 西楚の覇王 虞美人

劉邦

孫策…項羽に例えられ「江東の小覇王」と呼ばれた。

項羽と劉邦

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