ピクシブ百科事典

項羽

こうう

中国の秦末期の武将。二つ名は「西楚の覇王」。覇王の語源となった人物。
目次[非表示]

生涯

姓は、名は、字(あざな)が
一般的には項羽の名で知られている。代々の武将であった家系の出身であり、祖父は秦の二十万の大軍を破り、最後の楚王昌平君と共に楚の滅亡まで戦い散った項燕将軍。

紀元前2世紀にに対し反旗を翻す勢力が数多く出たが、その中心勢力の一つ項梁の甥であり、一騎当千の武将として知られる。項梁が王家の子孫を擁立して懐王とし、を再興すると、項羽はその将軍となった。秦の名将章邯陳勝や項梁といった反乱軍の盟主たちを滅ぼした後は、項羽が事実上のリーダーとなる。そして、秦の主力であった章邯の軍勢を鉅鹿で破り、反乱軍側の勝利を決定づけた。ただし秦の本拠地である都を落としたのは劉邦であった。

その後は西楚の覇王を名乗り、中華全土の実権を握るが、やりかたがあまりに身内びいきで強引だった為、反乱が続発する。劉邦も一度は項羽によって漢中に追いやられるが、反乱勢力の中心となる。項羽はこれを幾度となく撃破するものの、補給などを怠り個人の武勇のみを頼みとしたため、直接の戦闘(外交など)以外では、逆に追い詰められる。

遂には垓下の戦いにおいて、四面楚歌の状況の中(この言葉が生まれたのはこれが語源である)、残った兵と共に劉邦軍に攻撃をしかけてこれを散々に打ち破るも、最期の一人となった所で追っ手の敵兵たちの中に同郷で知り合いでもあった呂馬童を見つけ、彼に「我が首には多くの金と土地が懸賞としてかけられていると聞いた。ならば、それは旧知のお前にくれてやろう」と言い残し、自害して果てた。

項羽が自害した後、その遺体は懸賞金ほしさに目がくらんだ漢兵たちに切り刻まれ、五つに分かたれるという無残な姿になってしまった。ライバルとして何度も戦い続けた劉邦は遺体を持ってきた5人の将兵たちに褒美を五等分して渡す一方で、英雄項羽をそのままにしておくにはしのびなく、彼の霊魂を慰めるために祠を建て手厚く弔った。壮烈な時代を作り上げた英雄に対する、劉邦の手向けであった。
享年30歳。

評価

一言で言えば「強い」。それですべてが現せるほどであり、それが最大の長所であり、欠点となった。また性格も粗暴極まりなく、自分に対し反抗した兵20万を丸ごと生き埋めにしたり、制圧した拠点で住民ごと皆殺し、反抗の神輿でかついだ帝を用がなくなったからと僻地に追いやりその途中で殺害、など蛮行が多く見られた。公人としては凶行が多く粗暴だったが、私人としては礼儀正しく情の厚い漢であり、彼のために命を捨てて戦う部下も多かった。

項羽は戦術家としては傑出した才能の持ち主で、戦場では敵無しの強さを誇ったが、政治・経済といった戦略的な知識に乏しかった。あまりにも強かったがために物事を武力で解決しようとするきらいがあり、さらなる反発を招き寄せてしまった。

一方でツメが甘い部分もあり、劉邦をいわゆる「鴻門の会」で殺さなかったことが、後に文字通り身を滅した事になる。自らが強すぎた為に、自分以外のその他の人間を侮り過ぎたのが命とりとなった。その傲慢さから韓信や陳平といった人材を多く手放すことになり、政治家としての寿命を削る事になった。

しばしば後の三国志呂布とどちらが強いかで論争になるが、個人としての武勇はともかく、中国全土を事実上支配下においたたという点では呂布を上回ったというのは事実だろう。そもそも活躍した背景が根本的に違うので、比較は難しい。

凄まじい才能を持ちながら人間的に未熟な部分が多く最終的にライバルであった劉邦に敗れてしまったが、その波瀾万丈な人生は後世の人を惹き付けてやまない。

創作作品において

横山光輝の「項羽と劉邦」、本宮ひろ志の「赤龍王」ともに物語は項羽の死で終わりとなっているなど、項羽と劉邦の戦いのみを焦点を絞った作品が多く、その壮烈な最期から、この時代を題材とした物語の事実上の主人公となっていると言って良い(ちなみに前者は項羽がれっきとした主人公、後者は劉邦が一応主人公)。

コーエーのゲームではこの時代の作品「項劉記」が出てる他、三國志三國無双シリ-ズなどでは時代を飛び越えて項羽を登場させているが、能力値は当然武力が高く、前述の呂布を上回ってる事すらある。

エピソード

幼少期
楚の名家出身であった項羽は楚滅亡とともに叔父の項梁とともに隠棲を余儀なくされた。両親と死別した項羽にとっては項梁が親であり師匠であった。項羽は幼少の頃から文武ともにぬきんでていたが、学問は「文字は自分の名前が書ければ十分」、武道は「いくら強くても一人一人の戦いに意味はない」として放り出してしまった。項梁が「お前は結局何がしたいんだ?」と問うと「男に生まれたからには王になりたい」と答えた。それを聞いた項梁は項羽に孫子などの戦術指南書を与えて教育を施した。これが英雄項羽の下地になった。
始皇帝を見て
項羽と劉邦は二人とも若年期に始皇帝の行幸を見ていた。幼い項羽は始皇帝を見て「いつかあいつを倒して俺が王になってやろう」と野心を抱いき、若き劉邦は「男という者はああいう風に堂々とした者でなくてはな」と尊敬の念を抱いたとされる。後世の創作とも言われるが、二人の本質を端的に表したエピソードであろう。
秦を打ち破る
成人した項羽は2メートルを越す大男になり、その武勇から一目置かれる存在であった。やがて秦への反乱の機運が高まると兵を起こして立ち上がり、瞬く間に一勢力を築き上げた。秦最後の名将章邯の前に各国合同反乱軍が足踏みする中、項羽は凄まじい行動に出た。秦軍に対峙する前に食料物資を3日分だけのこしてあとは全部放棄してしまったのである。3日以内に勝たねば全滅という状況に項羽軍は奮い立ち、怒濤の勢いで章邯軍を蹴散らしてしまった。
彭城の戦い
秦の滅亡後、反乱軍の諸将が各地に国を作った。項羽は覇者となり、劉邦は僻地漢中の王(漢王)となった。項羽が斉の各地で起こった反乱の鎮圧に追われている隙に、劉邦は項羽に不満な各国と同盟して50万人の大軍となり、項羽の本拠地彭城を落とした。同盟軍はこれで項羽も終わりだろうと連日の酒宴に浮かれるが、項羽は手勢から僅か3万人の精兵だけを集めて、彭城を急襲した。50万人の大軍はこれに完敗し、劉邦は子女を抱えて御者一人だけを供に逃れ去ったという。
四面楚歌
ライバル劉邦に追い詰められた項羽は最終的に垓下の地に立てこもり膠着状態となった。劣勢とは言え項羽の武力は凄まじく、漢軍は突破口を見いだせずにいた。総司令官韓信は漢の重臣張良と相談し、長い遠征で故郷に帰れずにいる楚兵に故郷の歌を聴かせて望郷の念をかき立て戦意を喪失させる作戦に出た。やがて楚軍の周りから楚の歌が聞こえはじめ、戦意を喪失した楚兵たちは大半が漢軍に投降してしまった。項羽はこの状況を嘆き、自身の運命を悟ったという。現在でも身の回りが敵だらけの状況を四面楚歌という。

関連タグ

  武将 西楚の覇王 虞美人
劉邦
孫策(まるで項羽のような活躍をした為、江東の小覇王と呼ばれた)
項羽と劉邦

pixivに投稿された作品 pixivで「項羽」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 49590

コメント