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概要編集

大阪府出身の小説家・評論家。1923年~1996年。本名は「福田定一」で、ペンネームの由来は古代中国の『史記』を書いた司馬遷で、「司馬遷に遼(はるか)におよばず」の意味であると言う。


歴史小説や紀行文を得意とした。行動力もあり、幅広い交友関係も持つ。


司馬の小説は様々な小説家や歴史家に多大な影響を与え、小説によって歴史上の人物の一般的な印象や人物像も変えてしまった。

ある時期からは評論家や考察家として歴史や文化だけでなく政治経済などあらゆる分野へ持論を展開しており、その影響力から「戦後の歴史観」を形成した第一人者の一人といえる。


NHK大河ドラマや時代劇の原作も司馬作品が多い。また、『街道をゆく』のような紀行文や『明治という国家』、『昭和という国家』などの歴史随筆のほかに戯曲も書いている。


大阪府東大阪市にある司馬遼太郎記念館には、生前の司馬が集めていた史料のうち、半分近くの二万冊が常時展示されており、本棚を通り越して本の壁となっている。


作風編集

緻密な取材と独自の歴史観で様々な歴史上の人物達の小説を書き、基本的に司馬が好意を持った人物しか小説の登場人物として描かない。従って、司馬の扱う題材にはかなり偏りがあり、豊臣秀吉徳川家康の様に別の作品に繰り返し登場する人物もいる。


事実上、歴史小説というジャンルにおいて他作家の追随を許さない不朽のクオリティを誇る。

ただ、あまりにリアリティ強めな内容に「史実≠司馬作品」であるはずが司馬作品はそのまま史実と誤解されるケースが多発し、数々のトラブルが発生した。当然、司馬は自作に大小の創作を織り交ぜているため、内容は必ずしも歴史どうりというわけではない。

それだけクオリティが高い証拠なのだが、こうしたことから近年では「フィクション作品という枠組み中では」という注釈が付されることが多くなってきている。


作品の時代の多くは戦国幕末明治を舞台にしているが、生涯、太平洋戦争の戦中とその前後の時代の小説を書くことはなかった。その理由として当時の政府や軍上層部のあまりの愚劣さと出征体験の悲惨さに腹が立ったからだと言われている。

それが高じて、司馬史観と俗称される独自の歴史観を展開した。


詳しくは当該項目にて(大事なことなので二度リンクします)。

特にこの部分がユーザーや知識人の認識の差異や、後述のような司馬本人の無責任ともとれる言動による混乱で、現在まで論争が繰り返されており、近年ではその再定義が課題にされるケースが多くなってもいる。

小説では「筆者は考える」と作者が登場して意見を述べたり、「余談だが...」というお決まりのフレーズに続いて話が脇道に逸れることがすこぶる多い。脱線で語られる蘊蓄や、知られざる人物の繰り広げるサイドストーリーも司馬作品の楽しみのひとつである。


あと読者を惹きつける、飽きさせないための工夫なのか何なのか、作品中に濡れ場が頻繁に挿入されるなど非常にエロ度が高くて濃い点にも(特に年少読者は)要注意のこと。



エピソード編集

前述の通り、戦時中に学徒出陣で徴兵された経歴をもつが、その際に戦車兵としての教育を受けている。俗にいう、福田定一少尉である。

ついぴくまとめ2枚

ガールズ&パンツァー』に登場するキャラクター福田はるはそんな彼の経歴をリスペクトしたものである。



歴史と視点―私の雑記帖』というエッセイ集に含まれる逸話(「石鳥居の垢」)で、本土決戦の打ち合わせ中に大本営参謀に戦車で移動中に避難民で道路が埋まっていたらどうするんですか?」と質問したところ、「轢っ殺してゆけ」と返されたという記述していた。

しかし、他のエッセイでこの事を取り扱ったら、 描写内容や回答した人物が二転三転する(「百年の単位」・「昭和の道に井戸をたずねて」) という事態となった。


元・戦車第二十八連隊中隊長にして軍事史研究家であった土門周平は、司馬の当時の同僚に聞き取りを行ったが「だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。」という状況になった。

(中央公論『歴史と人物』増刊「太平洋戦争-終戦秘話」、1983年8月(通巻第150号)より)

とうとう、司馬本人に「なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も誰ひとりそんな発言は聞いていない」と問いただすと、司馬は「先生は学者ですなぁ」とニヒルに笑って一言だけ答えたという。

(『やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人』より。ちなみに、こんなあんまりな内容なので二人が対談することになった朝日ジャーナルからの企画はお蔵入りになった。)


さらに後日、内心で疑惑を募らせていた司馬の元同僚であった宗像正吉(元・大尉)が戦友会に出席した司馬を問い詰めたところ、

「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」

「小説というものは面白くなければ、読者は離れてしまいます」

と語り、作家としての「創作」だったことを明かしたという。

(『昭和史の秘話を追う』第4章司馬遼󠄁太郎と戦車 より)


補足すると、大戦末期の日本本土は昼間ですらP-51B-29といった敵の戦闘機や爆撃機がいつ襲来するか分からない様相で、場所によっては制空権をほとんど失った状態にあった。列車ですらどさくさで機銃掃射を喰らった事例がいくらもある中で、真っ昼間に何十両もの戦車隊が移動することは自殺行為にあたり、当時の軍上層部からも戦車の昼間移動は禁止されていて、移動は夜間に密かに行われた。現代ほどインフラ整備がされておらず、ただでさえ空襲対策で灯火管制が敷かれた当時の夜中に「大量の避難民」が発生することはまず有り得ない。

ついでにいえば、その当時の戦車の平均的な移動速度は時速5キロ前後である。なぜならデリケートな機械だから下手に全速出したらすぐ壊れるため。これでは「人を轢く」ことはできない。

(『司馬遼󠄁太郎とその時代 戦中篇』ほか)


こんな感じであるため、司馬のこの発言はマトモな軍事知識や当時の世相を知っているいる人間ならばそもそも想定も成立もし得ないというのが支配的になっている。


一方で、戦車に対しては愛憎入り交じった複雑な感情を持っていたらしく、くそみそにけなすこともあれば「九七式中戦車はメカニックとしては大変優れていた」「時々夢に見る。内部で臭う独特の臭気すら夢に出てくる」と素直に愛着を語ることもあった。

「ダメな子ほどカワイイ」といったところか。

ただし、運転は下手クソだったと自己申告している。戦後も「一般車を運転しようとも思わないし、車に轢かれたのが数少ない縁だ」みたいなことを言い放っている。前述の『歴史と視点』内では、徴兵当初は機械関連の知識がほとんど無いのにいきなり上官に「スパナ持って来い!」といわれたがスパナが何か分からず、相手にそのスパナでぶん殴られた……ect、そのほか軍役時の人間関係に関しては各所でも恨みがましく綴っている。


唯一、戦車学校生徒時の校長であった池田末男大佐に関しては一流の人格者と評価した。その池田は、終戦直後に千島列島へ騙し討ち同然で侵攻してきたソ連軍を、島の民間人を脱出させた後に司馬がいう「憂鬱な乗物」に乗り込んで占守島の戦いにて迎え撃ち、壮絶な戦死を遂げた。

戦車第十一連隊 北海道占守島  (鉄獅子その21・改)

この戦いは、日本陸軍最後の勝利として後世に語り継がれている。




代表作 (カッコ内は物語の主人公)編集

平安時代

戦国時代・安土桃山時代~江戸時代初期

江戸時代後期

幕末

明治時代

海外

その他


関連タグ編集

小説家 歴史 悲しき英雄

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