概要
プロフィール
生没年:1545年または1546年〜1605年
幼名:辰之助
通称:猪右衛門、伊右衛門
諱:一豊
官途名:対馬守、土佐守
最高位:従四位下
ルーツ
源義朝に従い平治の乱で討死した首藤俊通(『鎌倉殿の13人』に登場した山内首藤経俊の父)を祖とする。俊通は相模国鎌倉郡山内庄(現在の鎌倉市山ノ内。北条時宗が最晩年を過ごし、戦国時代に上杉顕定や憲政らを輩出した山内上杉氏の発祥の地でもある)を本拠として首藤の上に山内を加えて山内首藤(やまのうちすどう)を称した。一豊の山内氏は戦国時代に安芸毛利家に仕え、江戸時代には長州藩士になった備後山内氏の分家とされる。
名字と名前の読み
山内一豊は長らく「やまのうち・かずとよ」と読まれてきたが、現存する書類の振り仮名や記述からま「山内」の読みは「やまのうち」ではなく「やまうち」が正しいとされている。また「一豊」についても家臣に一豊が偏諱(家臣の名前に主君が自分の名前の一文字を与える事)した際は「一」を「かつ」と訓んでいる為「かつとよ」が正しい訓みとされている。ちなみに先述の備後山内氏は「やまのうち」と読む。
生涯
山内盛豊の三男。盛豊は岩倉織田家(織田伊勢守家)の織田敏信やその子の信安に仕えていた。しかし、信安の長男・信賢が信安と弟の信家を追放してからは信賢に仕えていた。しかし、1559年に信賢と反目する傍流の織田弾正忠家の当主・織田信長に岩倉城を攻められ滅亡、盛豊も討死したため一豊は流浪することになる。1568年頃に信長に仕え木下藤吉郎の与力になった。その後、浅井長政との姉川の戦い、朝倉義景を追撃した刀禰坂の戦いで活躍。藤吉郎改め羽柴秀吉が北近江で13万石を信長から与えられた時には一豊自身も浅井郡唐国(滋賀県長浜市)で400石を得た。1576年頃には秀吉の直臣になったとれる。その後も播磨三木城・因幡鳥取城・備中高松城攻めに参加している。
信長死後の賤ヶ岳の戦いの前哨戦では柴田勝家や織田信孝に呼応した滝川一益が領していた伊勢亀山城を落とし、その後の小牧・長久手の戦いにも参戦している。四国征伐後、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共に羽柴秀次付きの宿老の1人となる。また若狭高浜城主のち近江長浜城主に就任し2万石を領した。小田原攻めにも参戦し、秀次配下として伊豆山中城攻めに参加した。戦後、遠江掛川城主となり5万1000石を領した。
秀次事件の際には渡瀬繁詮(由良成繁の次男)や前野長康らと違い連座を免れている。
秀吉の没後、徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは池田輝政などの東海道筋の豊臣系大名を東軍側にまとめている。この時、自身の居城の掛川城を提供した。これは元々、堀尾忠氏(吉晴の嫡男)の案であり堀尾家の居城・浜松城を家康に提供することを忠氏から聞いていた一豊が忠氏を出し抜いた格好になったため、のち忠氏から貴方らしくもないと言われたという。それ戦後土佐一国9万8000石に加増転封された(後に20万6000石に高直し)。居城は当初長宗我部氏と同じく浦戸城を使用していたが手狭だったので大高坂山城を基に高知城を築き居城とした。
しかし、土佐では関ヶ原の戦いで敗れ改易された長宗我部盛親の旧臣らが勢力を張っており、彼らは山内家に従おうとせず「浦戸一揆」を起こし抵抗したため、謀略を使い強硬に鎮圧。土佐藩は元来からの山内家家臣や(長宗我部氏と敵対していた)安芸国虎の次男・家友のような新規召し抱えの者を中心とした上士と長宗我部家旧臣らの郷士(下士)階級の二重構造を幕末まで引き摺ることになった。これが、結果として坂本龍馬のような異端児が後世出現する素地を作ることとなる。
ちなみに影武者を使っていたことが記録に残っている珍しい人(影武者はその存在そのものがトップシークレットなので記録すら稀)。前述のような有様だったので、土佐藩の領内を視察する際は似たような体形の部下を数人引き連れ、全員同じ服装に笠を目深に被って誰が一豊かわからないようにしていたらしい。
1605年に逝去。享年61または60。一豊には成人した男子はなく弟・康豊の子である忠義を養嗣子とした。土佐藩主は以降も忠義の系統が続き幕末に山内容堂を輩出する。
逸話
- 1581年に信長が馬揃えを行った際、一豊は立身出世の為に名馬を手に入れて参加したいと考えていたが、経済的な事情から長らくそれが叶わずにいた。ある時馬市場で駿馬を見かけるが、十両と言う破格の値段により涙をのんで購入を諦め、妻の千代(後の見性院)にその無念を打ち明ける。すると千代は「嫁入りの折、夫の危急を救う為に用いよ、と父に持たされました」と言って手鏡に隠していた十両の金子を取り出し、これにより一豊は名馬を手に入れる事が出来た。この逸話から千代は『夫を「内助の功」で助けた賢妻』と評価されており、また一豊の愛馬はこの故事から一般に「鏡栗毛」と言う名前で呼ばれている。しかし、一豊は当時播磨国有年(兵庫県赤穂市)に2千石の所領を持ちそこまで困窮していなかったこと、さらにこの時期の羽柴軍団は中国地方経略に忙殺され秀吉を筆頭に誰も馬揃えに参加出来ず秀吉が悔しがった逸話があることなどからこの逸話の信憑性は現在ではおよそ否定されている。
- 掛川城主時代は駿府城主になった中村一氏と協力して大井川の流路変更などを行っている。
- 堀尾吉晴と仲が良かったが吉晴の父・泰晴と一豊の父・盛豊は岩倉織田家で同僚だった。ただし秀吉の配下になったのは吉晴の方が早い。
- 土佐国主になってからはかつて父が仕えていた織田信賢を土佐に招き200石を与えている。
- 鰹のたたきは一豊が土佐藩主になったとき、地元の漁師が生の鰹を食べて食中毒なることを問題視し、生食を禁止し炙ることで誕生した料理とされている(諸説あり)。
- 後を継いだ忠義の子孫が地元の酒である土佐鶴のCMに出演していたが、高知県では山内氏は余所者であるという見方らしい。
フィクションにおける山内一豊
小説
司馬遼太郎による小説。千代が主人公。
NHK大河ドラマ
- 国盗り物語(1973年)
- 功名が辻(2006年)
一豊は上川隆也、主役の千代は仲間由紀恵が演じた。このドラマから名字と名前の読みが「やまうち かずとよ」になっていった。
民放ドラマ
- 司馬遼太郎の功名が辻
1997年に放映されたテレビ朝日による司馬の同名小説を原作とした時代劇。一豊は宅麻伸、千代は壇ふみが演じた。
ゲーム
戦国群雄伝から登場。基本的には政治が少し高めな以外平々凡々な武将だった。最新の新生では政務・武力・統率が70台、智謀も60台と(政治・統率・智謀が43・35・49と)最もデフレした嵐世紀の頃からすれば大幅にアップしている。
妻である千代に先駆けて、織田家の武将として参戦。
のちに千代も同様に「1570 魔王上洛す」から織田家所属で参戦している。
こちらでは、夫妻同時に解説する。
- スペック解説(山内一豊)
スペックはコスト1 武力3/統率3の槍足軽。
無特技なのが寂しいが、コスト1で見ればバランスのとれた能力。
持ち計略は「不屈の構え」。
他の武将も用いる「武力を底上げし、兵力を回復する」もののため、使うのは稀だろう。
「千代、俺はお前のために
必ず出世するからな!」
- スペック解説(千代)
スペックはコスト1 武力1/統率5の弓足軽で、特技は「魅力」。
戦力として戦うには無理のある能力なため、基本は弓と計略による後方援護になる。
持ち計略でもあり、彼女の逸話でもある「内助の功」は、範囲内の「最も武力の高い、コスト1の味方武将」に対して武力を4、移動速度を100%上昇させるもの。
使用する士気が3と少なく、2色の混成にしても最大3連続の発動が行える。
重ね掛けも利くので、織田家のみの編成にしてその気になれば適当なコスト1武将が武力16以上・4倍速で動けるというイリーガル武将も出来あがる(費用対効果に合うかは別として)。
「貴方が出世なさるまで
私が支え続けます!」
ちなみに、一豊に4度掛けると武力が{3+(4×4)}=19、移動速度は足軽基準で3.6倍速での移動が可能になる。