概要
小牧・長久手の戦いとは天正十一年(西暦1583年)に賤ヶ岳の戦いで破れ織田信孝を切腹させた織田信雄が、賤ヶ岳の戦いでは同盟を締結して戦った羽柴秀吉の排斥を訴えて反旗を翻した戦いである。古来は実際の武力衝突(局地戦である長久手の戦い)と秀吉の尾張伊勢全域を攻めた小牧の陣に於ける長久手合戦という呼称であった。
小牧・長久手の戦いの経緯
徳川家康の勢力拡大
やや曖昧な結果に終わった小牧・長久手の戦いの結果に対して、この戦いに至るまでの経緯は意外と複雑である。先ず根本的な切っ掛けは、本能寺の変後に伊賀越えで自領・岡崎に辛くも帰還した徳川家康が、既に山崎の戦いで明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉に自身の明智光秀討伐軍をそっくりそのまま、本能寺の変で国一揆が勃発した織田領の甲斐へと差し向けた時点から始まる。
この時期、甲斐は国主である河尻秀隆が一斉蜂起した武田軍残党を何とか纏めようと四苦八苦していたのだが、徳川家康の助勢申込に対して家康はそのまま甲斐を横領するつもりであると判断し援軍を拒否した結果、秀隆は甲斐国の反乱軍に殺害されてしまう。一揆を煽動したのが甲州征伐後、武田家旧臣を多く雇った徳川家康の手によるものだったという話もあるが、この点に関しては見事に結果を出した。
と同時に、やはり旧武田家の支配地であった信濃でも国全体が蜂起し、信濃の土豪であった木曽義昌を除く、織田家家臣の川中島四郡拝領であった森長可、伊那郡拝領の毛利長秀も支配の浅い新たな領土で一揆を鎮圧するのは織田信長、織田信忠を揃って亡くし織田家が行動不能の無法状態へと陥っている現状では余りにも危険が大きいと判断し、揃って旧領に撤退する。上野国に封じられた滝川一益も神流川の戦いで後北条氏に敗戦し旧領の伊勢へと撤退した結果、信濃も上野も甲斐と同じく、支配者の居ない巨大な空白地帯となってしまったのである。
この情勢に対して南から徳川家康、東から北条氏政、北から上杉景勝が侵攻し上記三国は天正壬午の乱の結果、上野一国は北条氏政が、信濃は北信濃四郡の更級郡、高井郡、水内郡、埴科郡を上杉景勝が、残った信濃と甲斐を徳川家康が切り取り次第で自らの領国に編入する事と結論づけた。
一方で徳川家康は今川義元亡き今川家と縁を切り尾張の織田家と清洲同盟を締結し互いに同盟関係にあり、織田家と組んで甲州征伐を行い甲斐武田家を打ち破った際には織田家からこの戦の正規報酬として旧武田家領土の駿河一国を拝領していた。よってこの行動は堺で本能寺の変の結果を知り、織田家が行動不能であるその隙を突いた領土侵犯と云う事になる。が、本能寺の変後の織田家の混乱とそれぞれの織田家内紛の利害計算から、タイミングは異なるが織田信孝、柴田勝家、織田信雄らからこの行為に対しての追認、安堵状を得た。だが、これらはいずれも安堵状を発行した当事者が権力闘争に敗北し戦死あるいは衰退した事によって空手形と終わってしまっている。
同年九月には織田信雄が家臣、水野忠重を徳川家康の援軍に派遣するに至り、それぞれの緩衝地帯を定め信濃、甲斐、上野を巡る天正壬午の乱は一先ず十月末に終結する。よって前置きを長くしたがこの小牧・長久手の戦いという戦争が勃発した理由の一つとして、天正壬午の乱にて織田領の甲斐、信濃を同盟国の徳川家が横領しその返還を拒んだ、という点が影響している。
織田家の主導権争い
一方、先代の支配者と現役の支配者を同時に喪って混乱の坩堝にある織田家の主導権争いであるが、天正十年六月二十七日(西暦1582年7月16日)、清洲会議にて織田信忠の実子である三法師(後の織田秀信)を後継者と定める案に羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興ら宿老達が賛同、信長の息子である織田信雄、織田信孝、三法師の後見人となる堀秀政(近江佐和山代官)、他にも徳川家康、織田秀勝らの協力、承認を得て、小康状態ではあるが取り敢えずの安寧を見た。
しかし織田家の政権運営では山崎の戦いで主君の敵を討った羽柴秀吉が先行する形になっていくことになり、織田家の筆頭家老としての自覚が強い(実際に織田弾正忠家の家老職だったという説もある)柴田勝家は織田信長三男の織田信孝と結びついて羽柴秀吉と対立。また羽柴秀吉も織田信雄や丹羽長秀らと結託し、これが天正十一年(西暦1583年)に勃発する賤ヶ岳の戦いに収斂していく。
この賤ヶ岳の戦いで異母弟の織田信孝と信孝を後援した柴田勝家が自刃し織田家の順列も固定付けられたかに見えたが戦後、間もなく尾張、伊勢などに勢力を持つ織田信雄が、その羽柴秀吉の著しい台頭を危険視するようになった。
この動きが実際の武力衝突へと発展したのは織田信雄が自らの家老である津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名を確たる証拠もないまま秀吉に内通したとして切り捨て、その城を接収した凶行を発端とする(ただし「三家老」と言う言葉は軍記物が初出であり、浅井長時に至ってはまだ十代だったとも言われている)。その後、織田信雄は信雄直属の重臣である木造具政、滝川雄利、織田長益らと連携を取り、天正十二年(西暦1584年)三月に羽柴秀吉に対して挙兵。これが小牧・長久手の戦いの戦端となった。
対して徳川家康は、関東で姻戚関係にあった北条氏直を通じて関東地方における勢力台頭を目指していたが、中央(畿内)で拡大を続ける羽柴秀吉の勢力に通じる大名も多く、秀吉と親しい関係を築いていた佐竹義重と、自らの娘婿である北条氏直の対立は看過できるものではなかった。織田家の権力を継承して朝廷まで味方に付けた羽柴秀吉の権力がそれ以上、増大することを恐れた家康は、信濃方面でも木曽義昌らが秀吉に味方しつつある状況を危ぶみ、甲斐、信濃を徳川領として安堵する事を条件として織田信雄の共闘申込みを受諾するのである。
主な参戦大名、共闘兵力一覧
織田・羽柴方(総勢8万名~10万名以上)
織田一族:織田秀信(信長嫡孫、織田家当主、安土城在任)、織田秀勝(信長四男)、織田信包(信長実弟)
信長旧臣:羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、前田利家、堀秀政、黒田孝高、蜂須賀正勝、
羽柴秀長、蒲生氏郷、滝川一益、森長可、金森長近、長谷川秀一、
羽柴家臣:羽柴秀次、田中吉政、尾藤知宣、加藤清正、福島正則、竹中重門
織田・徳川方(総勢1万6千名~3万名程度)
織田家臣:佐々成政、木造具政、佐久間信栄、滝川雄利、水野忠重、前田長種、
丹羽氏次、藤方朝成、加賀井重望、不破広綱、土方雄久、佐治一成
徳川軍団:徳川家康、石川数正、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、服部半蔵
小牧の戦いの流れ
両者、本腰を入れての合戦に
さて、家康が出兵した後、賤ヶ岳の戦いの論功行賞で美濃を拝領し戦況を見極めていた池田恒興が秀吉軍に与すると、この一報を清須城で耳にした徳川家康は濃尾平野の要衝である小牧山城を抑える為に強行軍する。清須城の到着が三月十三日、小牧山城の到着が三月十五日の事である。
同じく秀吉軍も小牧山城の重要性を認識しており、信濃の所領を強奪され憤慨する森長可が尾藤知宣と共に三月十六日、犬山城と小牧山城の合間にある羽黒の砦に着陣するも、この動きは家康も予想の範疇であり、先発隊として早々に出陣していた酒井忠次、榊原康政の両将が羽黒砦を強襲。森長可と尾藤知宣の両名を敗退させる(羽黒の戦い)。こうして襲撃の危険性が無くなった所で改めて家康は三月十八日、小牧山城を占拠して普請に取り掛かった。
その頃、家康と結んだ根来寺や雑賀衆、紀伊方面の一向一揆に悩まされながらも秀吉は三月二十一日に大坂城を出立、三月二十七日に犬山城へと到達し、四月五日には楽田に着陣する。
こうして家康、秀吉の両将は互いに対峙しながら各防御施設を普請するなど睨み合いになる。
織田・徳川連合軍の戦強さを見せつけた長久手の戦い
戦局が動いたのは池田恒興、森長可、堀秀政、三好秀次の四将による別働隊にて家康の居城である小牧山城をスルーし本拠地である三河の岡崎城を攻めようという中入り策が実行された四月六日の事である。兵力で劣る家康は小牧山城を捨てるか三河を捨てるかの岐路に立たされるが、前者の小牧山城を捨て打って出る事を決定。
而して四月九日、秀次を大将とする別働隊の先陣である池田恒興隊、森長可隊が織田家臣の丹羽氏次の実弟であった丹羽氏重が自らの命と引き換えに苛烈な守る岩崎城を攻める。その後方で第四陣であり総大将である秀次隊が榊原康政隊の奇襲により敗退する(白山林の戦い)という異常事態が発生する。続く第三陣堀秀政隊には秀次隊を敗退に追い込んだ榊原康政らの威力偵察もあって(桧ヶ根の戦い)、兵力こそ互角なものの予め地の利を味方に付け高地に陣取って鉄砲兵などを万全に配置する徳川に対し、逆に低地の湿地帯に布陣するしかなかない堀隊は徳川家康、織田信雄ら前に撤退を余儀なくされた。秀次隊は合流した堀秀政隊に護衛されながら犬山城にまで撤退することになる。
岩崎城陥落後、味方の敗走にようやく気付いた池田恒興隊、森長可隊は徳川家康自らの出陣を知り千載一遇の機を得た。こうして長久手で徳川家康、織田信雄、井伊直政、水野忠重らの総勢約九千名の軍と衝突する。これが小牧・長久手の戦いで最大の武力衝突となる長久手の戦い(長久手合戦)である。
こうして暫くは一進一退であった長久手合戦も森長可が眉間に銃弾を受けて壮絶に戦死。池田恒興も嫡男、池田元助と枕を列べ討ち死にするという結果に終わる。正しく織田徳川連合軍の大勝利であり、織田徳川連合軍の戦死者五百名に対して織田羽柴軍の戦死者は二千名に上ったとされ、加えて堀秀政と三好秀次を除いた森長可、池田恒興両侍大将が戦死するという手痛い敗戦を喫する事となる。
大勢、依然秀吉の下にあり
龍泉寺方面で別働隊の敗戦、森長可、池田恒興らの戦死を聞いた秀吉は、以後、強行な進軍を行わず自らが得意とする、兵力と戦術による多方面作戦や、調略を肝とした領土占拠を選択し、水攻めや兵糧攻め、離反調略などによってジワジワと包囲網を狭めていく。織田信雄の居城である伊勢長島に向けて滝川一益、九鬼嘉隆らを送り込み、信雄の味方をこの両者に調略させる事によって徳川家康らとの分断作戦に出た。一方で竹ヶ鼻城をはじめとする尾張、美濃で織田信雄に味方した勢力の拠点も武力で包囲し続ける。
滝川一益が自らの旧領である蟹江城を武力攻略した折には何故か滝川一益にのみに目ざとく反応した徳川家康の援軍と織田信雄家臣、山口重政の奮闘もあり蟹江城の奪還に成功するものの(蟹江城合戦)、竹ヶ鼻城は本多忠勝、滝川雄利らの援軍を派遣しながら、救援することができずに落城を見ている。
また秀吉は中国地方の宇喜多秀家、毛利輝元らとの連携を強化する一方、越後、信濃方面では秀吉に味方した上杉景勝や賤ヶ岳の戦いの論功行賞で大名となった前田利家が、佐々成政や徳川家康の領土を牽制したり、同じく秀吉に味方した木曽義昌が、徳川方として攻撃してきた保科正直らを撃退したり、直接戦闘地以外でも徳川家康不利の状況となっていた。
また織田信雄も自ら滝川雄利、木造具政ら籠城する重臣を鼓舞しながら、それらの救援をするので手一杯であった。ここに来て長期間の戦闘もあり、圧倒的大軍とそれを賄う兵站を擁する秀吉に抗するのも限界が近づいていたため、大半の領土を秀吉軍に占領された織田信雄は和睦を決意する。
政治的判断から両軍、講和、休戦へ
秀吉は所領を半分以上、占拠されてしまった信雄に単独で尾張国安堵、並びに現状、蒲生氏郷に占拠されている伊賀国一国と伊勢国半国は秀吉側に割譲する事で和睦を提示し、比較的寛容な条件の和睦に対して信雄が応じた事から、秀吉に矛先を向けるだけの大義名分を持つ信長の息子、織田信雄を失った家康もドミノ式に戦闘を継続する大義名分を失い、家康は休戦条約として家康次男、於義丸(結城秀康)を人質として大阪城に送る事で決着を見せる事になる。信雄の和睦承諾が天正十二年十一月十一日(十五日説もあり)、家康の撤兵が十一月二十一日の事である。
尚、この戦に於いて大勢を秀吉が優位に進めていた証左としてか、戦中の天正十二年十月十五日、秀吉に朝廷から従五位下左近権少将の官位が下されている。
そうして、この信雄の単独和睦による家康撤退によって断固とした反秀吉を唱えていた佐々成政、紀州諸勢力、地盤が固まらぬ四国の長宗我部元親らは戦略的に孤立する事となり後、それぞれが翌年に各個撃破されてしまう。
そして上記、賤ヶ岳の戦いで滅びた柴田勝家とは異なり徳川家康が小牧・長久手の戦いにてほぼ対等と云っていい条件で講和出来た、という事実が後の日本史に強大な影響を与える事となる。
豊臣秀吉と徳川家康のその後の関係
家康は休戦中にも切り取った信濃、甲斐を手放すどころか第一次上田合戦などで更なる領土拡大を行い、これに警戒心を強めた豊臣秀吉から人質の追加を命じられるがそれに頑として首を振らない家康にたまりかねてか、豊臣家との折衝を担当していた西三河筆頭の酒井忠次と並ぶ重臣、東三河筆頭の石川数正が徳川家康の下を出奔するという事態が発生し、織田信雄の家臣でも豊臣秀吉に接近する家臣が増えた。
この小牧・長久手の戦いが実際に終戦して徳川家康が豊臣秀吉に臣下の礼をとって互いに水入りとなるのは豊臣秀吉が関白に就任した天正十三年七月より更に一年後の天正十四年十月の事となる。
秀吉は、家康と講和した後も再戦に向け、1年以上かけて体勢を整えていたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に発生した「天正大地震」により、対家康前線基地である大垣城が全壊焼失するなど、軍勢を展開させるはずだった美濃・尾張・伊勢地方が甚大な被害を受け、戦争準備どころではなくなってしまった。
さらに、九州を島津義久ら島津家が統一する勢いを見せており、豊臣秀吉としても小康状態の続いた徳川家康との戦いよりも、矢の催促で後詰めを要求する大友宗麟への対応を優先させておきたいところであった。
結局、豊臣秀吉は甲斐、信濃の両国を徳川家康領土として安堵し、自らの実妹である朝日(朝日姫)を家康正室として輿入れさせ、更に実母のなかを岡崎まで、見舞いという名目の人質として送るなど破格の懐柔策を講じるのである。
家康もまた、重臣である石川数正の出奔、部下であった真田昌幸、小笠原貞慶らの離反、何より自らと拮抗する勢力で頼みとしていた百万石以上の勢力を持つ織田信雄が完全に秀吉に臣従したことや、天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて起こった地震や大雨に加え小牧・長久手の戦い等への領民動員による負担が重なって家康の領国は荒廃。秀吉との戦いどころではなくなってしまっていたことを受け、秀吉に臣従することを決意するようになる。
そして天正壬午の乱、第一次上田合戦で北条、徳川の両巨大勢力と見事に戦い抜き信州上田と上野沼田(飛び地)の独立を保った真田昌幸への領土侵犯が戦端となって北条征伐が発生し、更に後年の関ヶ原の戦いでは第二次上田合戦で徳川軍本隊を率いる徳川秀忠に散々、煮え湯を飲ませるのである。真田昌幸以外にも、小牧・長久手の戦いの対立構図が、関ヶ原の戦いの対立構図に尾を引いている大名も多く、そういう意味では天下分け目の戦いの前哨戦とも云える戦となった。