概要
応仁の乱以後に現れた、紀伊国一地方に所領を持つ土豪や小領主の連合による自治組織。具体的には紀伊国の南西にある雑賀荘、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷の計五つの地域で構成され、地域の運営方針は各地域の代表による合議制で決めていた。ただし、この五つの地域だけで少なくとも約60の有力家があり、代表は実際の所、伊賀と同じ様な輪番制であったらしい。傭兵稼業をしており、紀伊国守護の畠山氏の要請で度々出兵している。鉄砲の伝来以後はいち早くそれを取り入れ、より強力な戦闘集団へと成長していった。また、雑賀衆のいた地域は一向宗が強く、本願寺との関係が深かったので石山合戦が開戦した際には本願寺軍の主力として長く活躍している。但し今日、本願寺に良く与した為に雑賀衆の全員が一向宗門徒だったと勘違いされがちなのだがこれは間違いで、浄土宗と真言宗の信仰割合も高かった。
雑賀衆の土地柄は土地の貧しい雑賀荘、十ヶ郷と肥沃な土地に恵まれる中郷、南郷、宮郷に分けられる。後者は農業中心だったが、前者は海運や貿易、製塩、そして傭兵などで生計を立てていた。他に他国への技術指導も行っていたらしい(但し雑賀にて鉄砲の製造が行われていたかはまだ判別していない。自前にて雑賀で鉄砲を製造して調達してた、或いは摂津の堺から買い付けていたの二説が有力である)。後世の傭兵集団というイメージはこの前者の活動に拠っているところが大きいが、この二つのグループの仲は良好とは言えず、特に雑賀荘と宮郷は度々武力衝突を起こしている。なお、鈴木孫一(鈴木重秀)は十ヶ郷、土橋守重は雑賀荘の出身である。
頭に何かを戴くことを嫌い、紀伊国の他仏教勢力と同じく守護の畠山氏とは一定の距離を保ち、信長や秀吉のような天下人には悉く反抗した。本願寺とも明確な上下関係にあったとは言えないようである。内部も特定の有力な指導者がいなかったため一枚岩とは言えず、各々が結構好き勝手に行動している。
活動
畿内に進出してきた織田信長が本願寺と敵対すると、法主顕如の求めに応じて本願寺方の主力として戦闘に参加。独自で自前の僧兵を持たない本願寺の主力として活躍した。その一方で中郷、南郷、宮郷は最初、織田方にも兵を送っていたりもした。その極めて高い戦闘技量はしばしば織田軍を苦しめ、一度は信長自身も銃創を被るほどの大敗を与えた。その結果、雑賀衆の戦闘力を危険視した信長によって約十万の軍で本拠紀伊国を攻められる(第一次紀州征伐)。これに雑賀衆は鈴木孫一、土橋守重ら約二千の兵で抗戦。この戦は雑賀衆の巧みなゲリラ戦術と他の反織田勢力の動きもあり、信長は撤退。名目上は雑賀衆の降伏となっているものの、小勢の雑賀衆を十万の兵で殲滅できなかったという織田家の実質的な敗北に終わる。それを証明するかのように雑賀衆はその後すぐに反旗を翻し、信長は原田直政(塙直政)を大将に再び大軍を送るも総指揮官の原田直政が雑賀衆が主力となった本願寺勢の強襲で戦死し、その勢いを駆って同じく本願寺を包囲中であった明智光秀を包囲。軍団全体が崩壊しかける寸前で織田信長自身が迅速な後詰めに来援し天王寺合戦で本願寺勢に大打撃を与えるも、全体の趨勢として制圧に失敗している。以後、信長も本願寺勢も本格的な武力衝突には及ばず、信長は新たに佐久間信盛親子を本願寺包囲軍の指揮官に任官する。
やがて本願寺が織田家と講和すると、それを受け入れて紀州鷺の森に退去してきた顕如を迎え入れる。しかし、この頃になると親織田の鈴木家と反織田の土橋家の対立が表面化。孫一が守重を暗殺して主導権を握る。しかしその僅か半年後、本能寺の変で信長が横死すると今度は土橋家の遺児である土橋平丞が盛り返して孫一が出奔に追い込まれている。信長の死後に台頭した豊臣秀吉には一貫して抵抗を続け、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んだりもしている。しかし、時流には逆らえず、徳川と和睦した秀吉に攻められて壊滅した(第二次紀州征伐)。生き残りは帰農するか、全国に散らばって大名に仕え、「雑賀衆」という名前はここに消滅することになる。
が、雑賀衆の末裔は現代でも「さいか屋」という百貨店を経営し武装集団ではなく商人として生き残っている。