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佐久間信盛

さくまのぶもり

佐久間信盛(1528〜1582)とは、戦国時代に織田家に仕えた武将。佐久間氏の当主。
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佐久間信盛は織田信秀織田信長に仕えた織田家の武将。


  • 生:大永八年?
  • 没:天正十年(西暦1582年)一月十六日

概要編集

織田信長の父、織田信秀の代から織田家に仕えた重臣で、織田弾正忠家の後継者争いや尾張統一戦では森可成と同じく一貫して信長に味方した。

織田家の主要な合戦には殆ど全てに参加し、対六角氏戦や、伊勢志摩越前での対一向一揆戦で功績をあげた。しかし、三方原の戦いでは徳川家の後詰めに赴くも武田信玄相手に勝ち目なしと見て、ほとんど戦わずに撤退している。


また、小谷城の戦いから一乗谷の戦いへと続く対浅井、朝倉両氏戦では、浅井氏の援軍として小谷に布陣していた朝倉義景軍の動向監視と追撃を命じられていたにも拘らず、撤兵する朝倉軍を見逃し、尖兵役であったにも拘らず大将の信長に出遅れるという大失態を犯してしまう。浅井、朝倉両軍を撃滅した後、信長からその事について叱責を受けるも、信盛は有ろう事か「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(現代の若者風に言うと「そんな事言ったって、僕ら程の優秀な部下を持てるだけでも、ありがたいと思って下さいよ!」)と、あの信長に対して正面切って口答えをするという命知らずな事をしでかしてしまう。

当然、これを聞いた信長はその場で刀を抜き、信盛に対して所領没収・追放を言いつける程に怒り狂い、命の危機を感じた信盛は慌てて評定の場から逃げ出すも、同席していた明智光秀前田利家ら他の家臣達が間に入って、なんとか信長を宥めてくれたおかげで、最終的に信長からは『畿内の織田軍の敵対勢力をひとつ、年内中に潰してくる事』を条件に一旦処分を保留してもらい、その後、若江城の戦いで当時畿内の反織田派の有力勢力のひとつだった三好家(本流)の打倒に成功した事で、一先ず信盛の面目は保たれ、奇跡的に命拾いをした。


その後、対本願寺戦の総大将に任じられ、その大役故に次々と戦力となる兵やそれを養う為の石高を与えられた事から、信長に次ぐ領地を与えられるが成果を出さず、先の口答えの一件を根に持たれていた事もあり、堪忍袋の緒が切れた信長から、『職務怠慢』を理由に今度こそ追放を宣告すべく、それまでの非行を書き連ねた十九ヶ条の折檻状(佐久間折檻状)を直筆で突き付けられ、どこかの敵に討ち入って武功を挙げるか若しくは討死にするか、または頭を丸めて高野山に上るかの選択を迫られた結果、息子の佐久間信栄共々高野山に隠棲した。

その後、反信長派へ転じた高野山からも追い出された信盛は、一族郎党にも見放されて従者も一人にまで減り、最期は熊野で餓死、または十津川郷の秘湯にて湯治中に事故死したとされる。こちらは『信長公記』の記述であり、一方で信盛自身の書状や『多聞院日記』の記述では、信盛は高野山で平穏に余生を送ったことが書かれており、高野山から追い出されたというのは誤謬だともされる。享年55歳。

尚、信盛の死後、信栄は帰参を許されており、最後まで付き従った従者は忠義を理由に小者から士分に取り立てられている。


一方、織田家筆頭家老の座は柴田勝家となるが、一方では織田家宿老であった信盛でさえも、信長の機嫌の匙加減ひとつで容赦なく破滅させられるのを目の当たりにした光秀は内心危機感を覚え、やがて与えられた軍勢を使って本能寺の変を引き起こす遠因となったという説もある。

また、追放された信盛の配下だった軍勢は光秀へと引き継がれる事になっている。つまり、本能寺の変において、光秀側についていた兵士の一部には、かつての主君である信盛を追放した信長に対し恨みを抱いていた者も多くいたという事になる。


退却戦の殿軍の指揮に優れていたことから、織田家臣を讃える歌の中で『退き佐久間』と称されていた。ただし同じ歌に歌われている『掛かれ柴田』、『米五郎左』、『木綿藤吉』に比べると知名度はかなり低い上、織田四天王にも入っていない。


創作編集

「信長に口答えして激怒された」「怠惰を理由に追放」といったエピソードのイメージが強いからか、織田家を題材にした作品の中での扱いは悪く、筆頭家老だったにも拘らず存在を完全に無視されることも少なくない。

だが、同時期に追放された安藤守就林秀貞らに比べ、隠棲か武功を立てるかの二択を残されたという点で他の追放された家臣よりは、幾分か評価されていたと評す声もある。


戦国大戦編集

地味ながら使い勝手の良いカードになっており、史実の『退き佐久間』に違わぬ、ピンチ時の退却のスペシャリストとして活躍している。面倒事が嫌いでマイペースなおっさんとして描かれているが、なぜか髪型はリーゼントである。


信長の野望シリーズ編集

後半生の失態イメージもあり天下創世の頃までは完全な凡将といった能力値で他の織田家重臣達と完全に水をあけられていた。しかし革新あたりからは統率がやや高くなり始め、創世辺りでは統率・戦闘共に最低限使える能力となり、専用スキルである「退き佐久間」も身につけている。

そして新生では全能力が60〜70と他の織田家重臣には多少劣るが十分強い・使える能力となった。

ちなみに息子の信栄も何度か登場しているがこちらは全てが最低レベルの能力値である。



織田信奈の野望編集

CV:松本忍

一応宿老格だが完全にモ武将扱いであり、ヒロインの一人である柴田勝家や同じくモブの林通勝らと共に能無しの信勝を担いで謀反を起こす。が、人望の差で即日敗北し、責任を取らされる。

しかし相良良晴(秀吉に相当)の進言で信奈の真意を知り、彼女に敬服し忠誠を誓った。


元々はアニメオリジナルキャラクターだったが、後に原作にも登場。こちらでは信勝の謀反に加わっていない。こちらでの追放理由は、窮地の信奈を救うために自ら泥を被ったためとなっている。


センゴク(漫画)編集

通称は右衛門尉。重臣だが保身を重視するやや臆病な性格。過去の記録の分析を元にした撤退戦を得意とし、「退き佐久間」の異名を持つが、三方ヶ原の戦いで対峙した馬場信春からは「逃げ佐久間」と揶揄されていた。一方で命を賭すものに応える意気や、己の過ちを認めて謝罪する度量もある。

比叡山で軍令違反を犯した主人公・権兵衛が、一時彼の下に身を置いた。当初猪武者の権兵衛を軽んじていたが、三方ヶ原での彼の奮戦ぶりに先駆けとして認めるようになり、武田家相手に戦死者を出さずに乗り切ることに成功する。最後は彼を羽柴秀吉の元に戻るよう後押しした。

権兵衛が羽柴隊に復帰した後は、大坂で石山本願寺担当として交戦して開城に至る。しかし、いよいよ天下統一が見えている段階で、朝廷を軽視するような態度の見える信長に危機感を抱き、平清盛等を引き合いにしながら諫言。まもなくして信長に「佐久間折檻状」を突きつけられ、放逐されることとなる。その後、信盛の領地や権益はすべて光秀のものになった。

実はこの頃の信長は、信盛を始めとする保守的な思想を持つ者たちの広まりにかなり危機感を抱いており、組織変革のためにも信盛の粛清すら検討していた。しかし、信盛の諫言が彼なりに理のある織田家を想ったものであることは内心認めたため、追放処分に留めている。


信長の忍びシリーズ編集

CV:高橋伸也

泥棒のような丸ヒゲの冴えない容貌のおっさん。

元は丹羽長秀共々「うつけ」と言われていた信長を警戒していたが、若くして次々と功を立てていく姿を見て改心し、蜂蜜を器一杯飲まされるという拷問のような歓迎を受けて信長傘下となる。

「退き佐久間」の一面がムチャクチャ強調されており、蜘蛛を見ただけで逃げ出す、配下の兵が一人たりとも死なないほど見事に敵を躱す、千鳥の巻き添えを食らったらやばいという理由で退却する(実際に光秀が巻き込まれそうになったため間違いでは無かったが)変わり身の術を手に入れる、不利と見るや言い訳を猛烈な勢いで並べ立て瞬間移動したかの如き速度で全軍撤退するなど、「イタリア人ジョーク」もびっくりのヘタレぶりを見せている。

また、前述の口答えに加え、「申し訳ございません・・・正直『そんなにうまく的中するはずがないと」…『周りが動いてからいいだろう』と…みんな思っていましたー」といい、勝家秀吉、光秀に「みんなってなんだーーー」、「巻きこむなああ」と突っ込まれた。

のちに石山本願寺攻めの総大将となり、総構えで包囲を続けるが「4年も経ってるのに落とせていない」「他の武将が活躍し続けているのに」と配下から疑問視される。

織田と本願寺の和睦が成立するも、織田に降ることを良しとしない一部の門徒により寺自体が放火されて全焼。石山を基地として使おうと考えていた信長から完全に激怒される。当の本人は大幅な加増などの褒賞を期待して胸を膨らませていたが、使者としてやってきた堀秀政から手渡されたのは書状だった…。


関連タグ編集

織田信長 戦国大戦


親類編集



外部リンク編集

佐久間信盛折檻状(Wikisource)

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