武田信玄(史実)
甲斐国を治めていた戦国時代の武将。
戦国時代屈指の騎馬軍団を有し、また優秀な家臣団を従えていた。
孫子を信奉し愛読した希代の軍略家としても知られている。とりわけ、旗印に掲げた孫子の一節「風林火山」は非常に有名(意味については当該記事参照のこと)。
その優れた能力から後世の人々からは甲斐の虎、甲斐の龍などと呼ばれるようになった。
生涯
甲斐国守護武田信虎の嫡長子として誕生。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。
元服後に武田晴信と改めた。その後父である信虎を追放し、家督を相続する。
そして法号「徳栄軒信玄」を名乗った。
領土をめぐる対立で、北条氏康や今川義元らと激突していたが、上杉謙信という共通の脅威に対することで利害が一致、天文23年(1554年)「甲相駿三国同盟」を結ぶことに成功した。
しかし、その同盟も永禄3年(1560年)5月、義元が桶狭間の戦いで戦死し、今川氏の支配体制が揺らぎはじめると、永禄11年(1568年)の武田軍の「駿河侵攻」によって崩壊することになった。
また、上杉謙信との対立は、5度にわたる川中島の戦いが知られており、特に熾烈を極めたのは永禄4年(1561年)の第四次・川中島の戦いであった。
この戦いにおいて信玄は妻女山にこもる謙信に別働隊が夜討ちをかけ、あわてて山を駆け下りてきた上杉軍を別働隊とともにはさみうちにする策を講じたが、謙信は武田軍が立てるかまどの煙が少ないことから夜討ちがあることを察知、上杉軍は夜陰に紛れひそかに山を下り、武田軍を急襲する。
作戦を逆手に取られた武田軍は副将・武田信繁(信玄の弟)、山本勘助などの有力武将を数多く失い、信玄自身も負傷するなどの苦戦を強いられるが、作戦が失敗したことを知った武田別働隊の到着により辛うじて窮地を脱することに成功した。
元亀4年(1573年)、上洛の途中、三方ヶ原の戦いで徳川家康率いる軍を完膚なきまで押しつぶしたたが、その後陣中で持病が悪化して死去した。(死因は結核とも胃癌とも言われている」
人物像
長所
戦略家・戦術家としては「越後の龍」と称されている上杉謙信と並び非常に優秀で、また隠密集団である「三ツ者」や「歩き巫女」といった組織を結成する事によって情報収集においても高い能力を発揮している。
人身掌握にも長けており、父・信虎を追放して家督を強引に継いだ後は、内政に力を注いでいく事になり、治水事業である「信玄堤(しんげんつつみ)」を築き、「甲州法度」によって領地である法秩序を整えていき、更には金山開発によって財政も固めていった結果、「武田二十四将」と称される家臣達の信頼を得ている。
また、外交においては今川氏や北条氏と同盟・婚姻関係関係等を結ぶ事で背後の敵を極力減らす事に成功している。
多くの金山を支配下に置き、恩賞として甲州金という小粒の金塊を配下の武将に与えたことでも知られている(ちなみに、金山奉行をつとめた大久保長安は、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えている)。
信玄は戦において、「確実な勝利を得る」為に、様々な形で磐石な体制を整えた上で戦いを挑んでおり、及ぶ生涯の戦の中で、敗戦は3回しか経験しなかったとされ、最盛期において信玄は名実共に「戦国時代最強の武将」として名を轟かせていった(ただし、敗戦こそ少ないものの、自軍の損害もかなりの物となっているのも事実で、有力な大名を失ってしまった戦いも多い)。
有名な兵法書「孫子」からとった「風林火山陰雷」を馬印とした武田軍は、当時最も驚異的に勢力を拡大化させていた織田信長でさえ、「武田軍の強さは天下一」と恐れさせる程であったと、宣教師ルイス・フロイスの記録において語られている。
- 第4次・川中島の戦いの勝敗はいまもって評価の別れるところである。戦いの前半は上杉軍が武田軍を圧倒し、武田軍は多くの有力武将を失うことになったが、戦いの後半に武田別働隊が到着すると今度は武田軍が上杉軍を圧倒することになり、多くの上杉兵が討たれることになった。結果として、名のある有力武将を数多く失った武田軍も、武田軍以上に戦死者の多かった上杉軍もそれぞれに勝ちどきを上げることになり、双方、痛み分けという形で領国に引き揚げることとなった。
- 織田信長が「信玄公が上洛する暁には、わたしが喜んで露払いをつとめましょう」という書状と貢ぎ物を送ったおりには大いに喜び、「信長にはくれぐれも油断なきよう」という家臣の意見を一笑に付し、まったく聞きいれなかったことがある。
- 有能な部下であった家康を大敗に追い込まれた信長は信玄の実力を恐れていたとされるが、信玄も信玄で信長を恐れていたという説もあり、後に同盟を破棄してまで信長包囲網への参加を引き受けたのも、信長打倒への焦りからであった可能性が高い。
短所
様々なフィクションで信玄が人情家として描かれるのに対し、実際は政治能力に長けていても、合理性を追求するあまり、仁義の志は低かったという評価もある。
また、生涯において70回にも及ぶ形で積極的に戦争を起こした事実や、信長の比叡山焼き討ち以上とされる神社仏閣の破壊や略奪を繰り返し、更には父・信虎を追放した経緯から身内に対しても猜疑心が強く邪魔となれば容赦無く排除していた等から、非常に好戦的で冷酷な部分もあったとされている。
武将として、様々な戦において勝利を重ねていった結果、次第に増長していく傾向の見られる様になった信玄は、身内の心情や意見も省みようとしない苛烈な策略や戦後処理も辞さなくなる事もあり、数少ない諫め役であった弟の信繁を失った事で、より悪化の兆しを見せる様になった。
また、織田信長とは戦術や軍資金の調達方法が対比されることが多い。
楽市楽座で域内経済が自由化されるため、自治を奪った形となっても最終的に資金の拠出元の豪商らを成長可能とし、彼らからの拠出が出来た信長(火縄銃を3段構えで使い当時としては驚異的な速射が可能であるが、当然丁数が嵩み、材料費と工賃を工面できねば戦国大名と言えど出来ない手法である)に対し、武田領内ではそうした成長戦略がないまま軍資金の拠出だけが求められたらしく、積極的に侵略戦争を繰り出した事から、晩年には領内経済が疲弊気味であったようだ。
- 天文11年(1542年)に異母妹の禰々(ねね)が嫁いだ諏訪頼重の領土へ侵攻した際には、妹の婿やその家族の安全を保障して開城させておきながら、約束を反故にして兄弟の頼高共々甲斐に連行し、東光寺で強引に切腹に追い込んだ。あまりのショックで禰々は心を病んで鬱病になり、彼女は夫の死から1年も経たず、信玄を恨みながら死去している(一説には、心を病んだ末の自刃とも言われている)。
- 天文15年(1546年)における佐久方面にある笠原清繁の志賀城を攻めた際には、清繁が上杉憲政に求めて送られてきた援軍を撃破した信玄は、あろうことかその討ち取った3000人以上の上杉軍の首級を志賀城の回りに打ち立てる事で戦意喪失に追い込んで、数日後に清繁を始めとする300人余りは討ち取られ志賀城は落城した。
- 永禄3年(1560年)に同盟を結んでいた今川家当主・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後、今川氏は三州錯乱(松平家康の自立)や遠州惣劇(井伊直政の父・直親らの造反)などによって領内は混乱。織田の後ろ楯を受けた徳川家康の侵攻を許してしまう。このため信玄は今川氏真を見限り一方的に同盟を破棄しているだけでなく、義元の娘を娶っていた嫡男の義信が反撥して謀反を起こすに違いないと決め付け、彼を幽閉した後に切腹を命じる。更にはその傅役で、重臣として家中でも発言力の高かった飯富虎昌に責任を取らせる名目で、切腹に追い込んでいる。虎昌は信虎時代からの武田家の重臣で、武将としての実力も非常に高かった。非情過ぎるやり方も辞さない信虎・信玄の親子とは時に対立する事も少なくなくなかったとされており、今川家との外交においても、信玄の同盟破棄には反対している。また信虎時代に謀叛を起こした前科があったこと、それ以外の行動もあり信玄は謀反の疑いをかけ義信共々始末しようとしたのではないかという説がある。
衆道を嗜む信玄
・衆道は当時としては嗜みの一つとして知られており権力を持った武士は小姓を持つことも甲斐性の度量を示す尺度であった。そして武田信玄も衆道を嗜んでいたと言われている。その信玄が小姓に対して宛てた手紙(浮気の釈明状と言われる物)が残っている(ちなみに、相手は小姓時代は春日虎綱と名乗っていた高坂昌信)。BLの世界ですぞぉー!(ただガチホモ寄り・・・、いや正室や側室もいるのでバイか・・・。。)
また、王道という言葉を度々使用し、王道を征くという言葉の元祖は信玄であるといわれる。
評価
戦後の高度成長期~バブル時代~ミレニアム前後において、信玄は経営者の理想像と目されることも多く、また88年の大河ドラマ「武田信玄」のヒットもあり人気に拍車が掛かりその分武田家滅亡時の事実上の当主だった武田勝頼は批判の対象となっていた。
しかし21世紀になりさらなる研究が進み武田家滅亡の原因を作ったのは、功を焦った勝頼では無く、数多くの功績を挙げた結果、増長して身内の始末も厭わなくなった信玄の傲慢なやり方にあったとする評価も多くなり、現在は徐々に評価が下がっている。
実際、今川家との同盟破棄を反対した義信や虎昌が案じていた通り、同盟破棄後の武田家は、今川家だけでなく他に同盟を結んでいた北条家や上杉家をも敵に回し、後に自らの京都への上洛に焦って「信長包囲網」にも加わってしまった事で織田信長は勿論徳川家康とも完全に敵対にまで至る等、正に四面楚歌も同然の状態となってしまった。
息子だけでなく武田家の重臣達の多くまでも排除してまで行った同盟破棄は、結果的に完全に裏目に出てしまう事になった。その打開も出来ないまま、この事態を招いた張本人である信玄は、病に倒れこの世を去る形で責任を実質的に放棄してしまったので、それら全ての尻拭いをさせられる事になった勝頼に責を問うのは、あまりにも理不尽な話だったと言える。
また、武田家の滅亡後、信長からも「武田家が滅んだのは、信玄があまりにも不義理なやり方をした報いだ」と唾棄されたと言われている。
400年近く経った現在においても、佐久であまりに非道な蛮行を行った武田信玄は、地元の人々から酷く嫌われているとされている。
登場作品における武田信玄
戦国無双シリーズ
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戦国BASARAシリーズ
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信長の忍び&真田魂
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戦国大戦
CV:(両SR共に)てらそままさき (SS)伊智生士冶
上杉謙信に次ぐ3.5コスト、武力10、統率11、特技・魅力という良くも悪くも驚異的なスペックで参戦。
乱戦で殆どの敵武将を弾いていく姿はまさに「ブルドーザー」(御屋形ドーザーとも)。
計略の「風林火山」は武力・統率力・兵力・移動速度を上げる豪華なもの。
しかし消費士気も9と高く、通常の条件ならば一試合で2回しか使えないのが難点。
デッキ構成も悩ませる玄人向けのカードとなっている。
一方でSS(戦国数寄)カードでも登場。絵師は漫画家の高橋ヒロシ氏で、コスト3の武力9、統率8に魅力持ちと上記の自分自身と比べるとやや落ち着いた感じがあるものの、コストに相応しいスペックを持っている。
計略は「斗怒露駆け(とどろがけ)」で汎用計略である「轟駆け」の当て字だが、轟駆けと同じく突撃ダメージが増加するが、武力が5増加するというのが相違点。士気は5と轟駆けよりも1つ重いが使い所によっては活躍が見出せる。
しかしライバルとして、同コストで山県昌景や同じくSSの秋山信友、更にはコスト0.5下には飯富虎昌、そして「戦国大名カード」の自分自身(「風林火山」の信玄のイラストをアップにさせたもので、所持計略は「采配」(範囲内の味方全員の武力を3上げるもの))が存在する。特に山県や秋山に到ってはどちらも基礎スペックは一長一短だが、向こう2人には計略使用時の武力上昇が+6であり、更には速度上昇までついているが故に、そちらを優先される事が多い為(但し効果時間の長さは此方の方に軍配が上がる)、出番がなかなか来ないのが実情である。
しかしバージョンアップにより速度上昇騎馬が突撃準備状態でも迎撃(しかも特大)を取られるようになってしまった為、相対的にこのカードの価値は上がっているともいえる。
バージョン1.10「魔王、上洛す」においてはもう一枚のSRカードが登場した。
イラストは今まさに力尽きようとしている様子であり、その姿は圧巻である。
コストは3に下がり、武力8、統率12、攻城、魅力持ちとなった。
統率12は今川家のSR太原雪斎と同じで、全カード中最高の能力である。
計略は「瀬田に旗を」。消費士気は6。
自身は撤退するが、武田家の味方の武力と統率力と移動速度が上がる、というものである。
消費士気は軽くなっているので、計略コンボも考えられる様になったが、自身が撤退してしまうのが最大のネック。故に、計略と特技の攻城がなかなか噛み合っていない。
上記の信玄と同じく、使いどころに悩む玄人向けのカードである。
戦国ランス
貝(かい)と信濃の民から神の如く慕われる、出陣した戦は無敗の名領主。
赤い重厚な鎧に身を包み、その素顔を見た者はいない。
武田家は武田四将軍と呼ばれる忍者頭高坂義風、軍師真田透淋、武田最強の武士馬場彰炎、武田随一の将軍山県昌景の4人を中心としており、信玄はその4人の意見を戦に強く反映する。
pixivにはほとんど信玄のイラストはなく、鎧の中の姿が描かれてもおかしくないのだが・・・ネタバレになるので理由はお察し下さい。
戦国ARMORS
既に病死しているが、天下人となった豊臣秀吉により(謙信共々)甦生され、重臣級甦土無「乾闥婆」を与えられ配下とされる。筋骨隆々の堂々たる体躯(かなり大柄な明智光秀を悠々と見下ろすほどの長身)であり、背負った水瓶に入れた「若水」により不老不死となっている。
「変若水」を作り出す甦土無「人魚」の唯一の適合者・お市を守護するのが役目であり、秀吉に対しては敬意を抱いていないものの、血沸き肉躍る戦いを求めてその任を全うしている。
類稀なる軍略家であり将棋も得意だが、思いつくダジャレは小学生レベルであり笑いの沸点は恐ろしく低い。
戦場においては風林火山に準えた体術と「乾闥婆」より生ずる虎火砲(気泡を爆裂させる技で、重臣級甦土無の中でも最強の火力を有する。はっきり言ってラスボスである秀吉の甦土夢「阿修羅」より強い)を用いて戦う。乾闥婆は精力を限界まで酷使するため常人であれば使った瞬間命を落とす代物であるが、既に死んでいる信玄には変若水のある限り使用可能。
光秀と石川五右衛門のタッグにより倒されたかに思えたが、運よく変若水の湖に落ちたため一命をとりとめ、最終回では秀吉を裏切り光秀の逃走に加勢した。
殿といっしょ

CV:長嶝高士(ドラマCD、アニメ)
文武に優れた名将であるが、短気な上に移り気で、自己顕示欲が高い。部下の山本勘助&真田幸隆コンビにはしょっちゅうおちょくられ、そのたびに鉄拳制裁を下している。妻二人からはあまり好かれておらず、まさしく内憂外患そのものの状況に立たされている。
バイの気が強調されており、春日虎綱(高坂弾正)には掘られると勘違いされて上杉軍陣地までガン逃げされ、長年のライバルである謙信に対してもツンデレな一面を見せている。
戦国コレクション
CV:新谷良子
二つ名:戦騎女王
戦国世界では『戦騎女王』と呼ばれていた武将。作中で唯一宇宙にたどり着いている。
人工頭脳『ヴィスナー9000』の暴走により無人となった宇宙ステーション『ナホトカ』内部に突如現れ、サポートロイド『フサード29』と共にヴィスナーを止めるため戦う。
『風』(目にも止まらぬ俊足で攻撃する)『林』(軍配を使って攻撃する。フサード曰く『全く静かではない』)『火』(ただの火炎放射器)『山』(約10分呼吸を止められる)の奥義を使う。
→戦騎女王・武田信玄
戦国パズル!!あにまる大合戦

ラヴヘブン
詳しくはこちら。
織田シナモン信長
詳しくはラッキー(織田シナモン信長)を参照。
関連イラスト

関連タグ
中部勢 武田軍
風林火山 赤備え 甲斐の虎
武田晴信
武田信玄(大河ドラマ) 武田信玄(ゲーム)
関連人物
血縁者・親戚
武田信虎(父) 大井の方(母)
武田信繁(弟) 武田信廉(弟) 定恵院(姉) 禰々(妹)
三条の方(正室) 諏訪姫(側室) 油川夫人(側室)
武田義信(長男) 武田勝頼(四男/嫡子) 仁科盛信(五男)
黄梅院(長女/北条氏政室) 菊姫(五女/上杉景勝室) 松姫/信松院(六女/織田信忠室)
家臣
板垣信方 甘利虎康 原虎胤 飯富虎昌 駒井高白斎 馬場信春 内藤昌豊 山県昌景 高坂昌信 真田幸隆 真田信綱 真田昌輝
真田昌幸 秋山信友 長坂釣閑斎 穴山信君 小山田信茂山本勘助
望月信雅 土屋昌続 跡部勝資
望月千代女