プロフィール
生没:1504(永正元年)?~1565年(永禄八年)
通称:兵部少輔
別名:甲山の猛虎
概要
河内源氏四代目棟梁・源義忠(源義家の四男、源義親の弟)の子である飯富忠宗の血縁とされている。
「虎昌」の名は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には存在するが、彼が守役を結んだ信玄の嫡子・武田義信の側近が記した『二宮祭礼帳(にぐうさいれいちょう)』には無く、本名か否かには検討の余地を残している。
また生年についても、諸説あってはっきりしないがここでは1504(永正元年)生誕説を取る。
26歳(1531年)の頃に今井信元らとともに信虎に謀反を起こすも鎮圧され、それ以来は大人しく従臣している。五年後の1536年に北条氏の征西に今川方の援軍として参戦し、北条軍を大いに打ち破って勝利に貢献した。
二年後の諏訪・村上両氏の連合軍との合戦では、寡兵で数の有利を覆し、自らも97の首級を挙げるという破格の功績を見せている。
その後、1541年に板垣信方・甘利虎泰らとともに信虎の嫡男・晴信を擁立し、信虎を駿河に追放。以後は宿老として晴信を支え、1547年の「上田原の戦い」で先の二人が戦死した後は、武田臣下の中核を担い、川中島の戦い以後は晴信の嫡男・義信の後見人に抜擢されている。
桶狭間の戦いがきっかけとなり今川氏真や織田信長との外交を巡る信玄・義信父子の確執が発生したが、虎昌は義信を担いで謀反を画策したとされ、その責任を問って自害させられた。これを訴えたのは山県昌景であったと、『甲陽軍艦』では語られている。
信玄が「飯富虎昌が我々の仲(信玄と義信)を引き裂こうとする密謀が発覚した」「義信との親子関係に問題はない」(10月23日付『尊経閣古文書纂』)という趣旨の書状を小幡源五郎に送っている。
なお、現在ではこれは「今川氏(今川氏は北条と共に塩の禁輸政策を行ったり、北条と武田との協議事項、機密事項を上杉側に漏らす等の重大な同盟違反をしている)との条約を反故にし織田氏や松平(徳川)氏と結びたかった信玄と、親今川派の義信や虎昌との方針の違いにより起きた出来事」と言うのが定説になりつつある。駿河侵攻によって周囲に味方を亡くしたことは、信玄の死後に武田家が滅亡した最大の原因とも言われているため、彼の死は武田滅亡の第一歩であったとも言えるだろう。
上述にあるように、凄まじい戦闘力と卓越した合戦術から「甲山の猛虎(かぶとやまのもうこ)」と称され、敵味方から畏怖される武烈を有した。
また武田が誇る戦国最強の騎馬軍団「赤備え」の創始者ともされ、彼亡き後は弟(もしく甥)である昌景が継承し、さらに武田氏崩壊後は徳川家康の家臣である井伊直政が「井伊の赤備え」として継承していき小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで活躍し、直政死後は次男の井伊直孝に引き継がれた。また武田遺臣・真田昌幸の次男である真田信繁も赤備えを率いて大坂の陣で活躍した。
英傑大戦
緋勢力所属2コスト武力8知力1の槍兵で気合持ち。
優秀な2コスト槍兵が多い緋勢力中でも、一番のコスト比最高武力+気合から生存能力を持つことから、白兵戦の強さはピカイチ。その一方で、知力は最低値の1であり、伏兵やダメ系では一発で撤退で追い込まれ、攻城時間も長め。
総じて、一長一短のスペック。
計略は士気3の汎用計略「奮激戦法」。
武力+3、兵力40%回復とシンプルなものだが、武闘派スペックの槍兵の虎昌との相性は抜群であり、一時期勝率1位をたたき出した。
故に、即「奮激戦法」は武力+2、兵力30%回復に下方修正されたが、当時同じく「奮激戦法」だった山内一豊と千葉さな子が1年近く貰い事故により下方された。