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真田昌幸

さなだまさゆき

戦国時代~江戸時代初期の武将、大名。真田幸隆の三男。武田家家臣の時代から信州上田を拠点としており、「表裏比興の者」の名でも知られた。徳川軍に対して2度の勝利を収めた人物。
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プロフィール編集


概要編集

真田昌幸は甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸隆の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。


軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。

子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁真田幸村)らがいる。


生涯編集

武田信玄の時代編集

武田信玄に仕え「攻め弾正」という異名を持った謀将・真田幸隆の三男。同母兄に真田信綱・真田昌輝がいたため、生まれた時点では真田氏の家督相続の権利は無かった。1553年8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、自らも信玄に近習として仕える。初めは信玄の母方の一族・大井氏の支族である武藤氏の養子となって「武藤喜兵衛」と称し、足軽大将等を務めた。


初陣は『甲陽軍鑑』によれば、1561年9月の第四次川中島の戦いに、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。

1566年春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。1567年11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。


1569年10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。


1572年10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている。


武田勝頼の時代編集

1573年、主君・信玄が他界し、嫡男・武田勝頼武田家を継ぐ。天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い武田織田徳川)で長兄・信綱と次兄・昌輝が戦没したのを切っ掛けに真田家に復帰して家督を継ぎ、名を「真田昌幸」に改めた。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた。


1579年、主君・武田勝頼は上杉景勝と同盟(甲越同盟)を締結した(織田家と北条家に対抗するため)、9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせ、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた。

翌年、昌幸は勝頼より、受領名として「安房守」の名乗りを許されている。これは、北条家に対抗するために北条家重臣・北条氏邦を倒して上野(こうずけ、現在の群馬県)を占領せよという意味あいがあったとされる。


1581年には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある。


1582年、織田信長徳川家康北条氏政氏直が武田領に侵攻し、勝頼は自害。昌幸は最後まで勝頼の味方だった。


天正壬午の乱編集

武田滅亡後は、旧敵・織田信長に降伏。織田家重臣・滝川一益の与力となった。


しかし、信長が横死したことにより、昌幸は、神流川の戦いで惨敗した滝川一益を小諸や諏訪まで送り届け、一益ら織田軍は旧武田領から撤退。これをきっかけに、天正壬午の乱が勃発した。

まず昌幸は、北条氏直に臣従し、(北条との同盟が破綻した)徳川軍と敵対。

しかし、徳川に臣従していた旧武田家臣・依田信蕃の誘いを受け、徳川家康に臣従。しかし家康は北条家と和睦し、その条件として昌幸に真田家の城・沼田城を北条に差し出すよう強要する。

これをきっかけに昌幸は家康と断交し、上杉景勝に臣従した。真田はいまだに本領付近を制圧している北条との敵対を選び、その後、沼田は北条による猛攻にさらされるが、決して譲らず戦い抜いたとされる。ちなみに、景勝は武田信玄の娘婿である(前述した甲越同盟の証として、信玄の娘・菊姫は景勝と結婚して正室になっていた)。これにより上杉家による支援を受け、後述する第一次上田合戦(真田対徳川)に勝利することができた。いまだに沼田が北条の驚異にさらされていながら、徳川を敵に回し、上杉を味方にはしていたものの、言うなれば徳川+北条VS真田であった。


現在の地図を見てもわかるとおり、信濃長野県。信濃の一部は真田領)は越後(新潟県)、甲斐(山梨県)、駿河(静岡県)、三河遠江(愛知県)、美濃(岐阜県)などに囲まれている要所であり、当時でも前述の有力大名に囲まれており、絶えず勢力争いが起きていた。ゆえに真田家でなくても信州を領地にする豪族、大名は時と状況に応じて主を代えていた、またそうしなければ生き残れず簡単に滅亡していた。


7000もの徳川軍が上田城を包囲すると、をその6分の1に当たる、わずか1200人の手勢で退けたことで、その名を轟かせることになる(第一次上田合戦)。

ちなみに、上田合戦の際、徳川の大軍が迫りくる中、城内にて余裕の表情で囲碁を打っていたという逸話はファンの間では有名である。



豊臣政権時代編集

その後は豊臣秀吉に臣従。上杉景勝に臣従の証として差し出していた次男・信繁を盟主である秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となった。


天正15年(1587年)2月に上洛。3月18日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。なお、真田氏は上杉景勝を介して豊臣大名化になりたかったようだが景勝は真田氏を豊臣大名化させる意志はなかった。このため昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたが、当時は石田三成ら有力な取次と関係を構築できなかったので、豊臣大名化が遅れた。


1589年には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。この頃、昌幸は在京していたが、11月には真田家が歴史的に重要な役割を果たすのは、秀吉による北条家小田原攻めのきっかけとなった、当時真田領であった上野・名胡桃城を北条家が乗っ取った事件である。これが惣無事令違反とみなされた。この際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は昌幸に対して責任を取る形で自害した、これにより、北条攻めの口実をつかんだ秀吉は20万の大軍で小田原を攻めることになり、昌幸には上杉景勝前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、結果、関東北条家は滅亡している。


北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無い。

なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した。


1592年、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した。昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成された。昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣した。この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は皆無であり、上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。


大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。ただし扶持米は豊臣家から支給された。また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。


この軍役や普請の負担の功労により、1594年11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあった。また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)。


1597年10月、秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を浅野長吉と共に担当した。

時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。


関ヶ原合戦編集

関ヶ原の合戦においても、嫡子・信幸が家康側につき、自身は次子・信繁と共に石田三成側につき、決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」と頼んでおり、石田と上杉の仲介をしていたことがわかる。昌幸は再度徳川軍(この時の大将は徳川秀忠)の大軍と対峙、ついに敗れることなく徳川秀忠軍を関ヶ原の合戦に遅参させた(第二次上田合戦。この時、徳川秀忠軍は38000で、対する真田昌幸の軍勢はその10分の1である3500だった)。しかし関ヶ原の本戦自体は1日で終わり家康側の勝利に終わっている。


配流編集

「上田軍記」に拠れば、関ヶ原の合戦後、家康は、真田昌幸と信繁は死罪、真田氏の所領である信濃上田を没収という裁決を下すはずであったが、家康側に属した長子の信之、及び信之の舅である本多忠勝の必死の助命嘆願により赦免が認められ、信州上田領は信之に譲渡、及び昌幸と信繁は高野山の麓である九度山(当初は高野山に配流であったが、共に流された信繁の方が妻を伴っていた為、高野山の「女人禁制」の規則を配慮して麓の九度山に変更したという)に配流され、そこで国許にいる信之の援助を受けつつ「真田庵(善名称院)」で暮らした、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。

昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長(長政の長男)からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が窺える。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もある。


また配流当初には信之を通して赦免運動を展開し、その間に昌幸は赦免して復帰を願ったが、徳川家康の警戒が解けることはなかった。最晩年の昌幸は病気がちで、信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめたようである。慶長16年(1611年)に死去した。享年65。大坂の陣の3年前であった。


死後、信繁が大坂の陣に際し、大坂に入城した際は、昌幸はすでに亡くなっていたにもかかわらず、家康が思わず「親(昌幸)の方か、子の方か」と体を震わして問いただしたほどで、子の方だと聞いて安堵したというエピソードが伝わっている。これは創作であり史実には無いが、いかに昌幸が家康に恐れられたかが知られていた証左でもある。


なお、侮った家康がこの「」によって、その後どのような目に合うかは、広く知られる所である。


人物・逸話編集


表裏比興の者編集

昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。これは1586年の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。

  • これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。
  • これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。

知略・統率力編集

昌幸は現代の歴史小説において「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に根強い。誤りとまではいわないが、この従来の人物像の基礎になっているのは江戸時代中期の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定の『真武内伝』である。

  • そのため、確実な一次史料の存在が乏しく、昌幸の人物像や個性に関しては不明な点も少なくない。文人としての知識や興味は乏しかったためかどうかは不明だが、昌幸の著作や詩歌に関連する物は皆無の状態である。
  • 『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれているが、これから昌幸の人物像を紹介すると、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの大名を味方に付けるように策す事を遺言したとされる。
  • ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものであり、昌幸が死に臨んで披露したかどうかには疑問をもたれている。
  • 昌幸の策略は常に少数の味方で大兵力を抱える敵を破る事にあった。『真武内伝』では「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」と評している。
  • 同書によると昌幸は策略において常に楠木正成を手本にしていたとされている。また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されている。

武田信玄に対する忠義・敬愛編集

昌幸は最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。

  • 昌幸と親しかった上杉景勝は、前述した通り武田信玄の娘婿である。
  • 天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。
  • また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。
  • 同書によると、秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わる。

豊臣秀吉に対する恩顧編集

昌幸は大名となる過程で秀吉の支援を受けていたため、秀吉や跡継ぎの秀頼に対して一定の恩顧心があったとされる。


なお、一説によると、小田原征伐の後に家康が北条家亡き後の関東へ移封されてしまったのは、家康を目障りに思っていた昌幸の進言ではないかとの説があり、事実、家康が移封となった関東は、後に豊臣と関係の深い真田家や上杉家や佐竹家に挟まれた場所で、昌幸からして見れば上杉家や佐竹家と結託して徳川を包囲して攻め滅ぼすにはうってつけの場所であったと言えなくも無かった。


徳川家康に対する敵対心編集

家康とは互いに相容れぬ関係にあり、彼に対しては他の武将と比べてみても反骨精神が並外れなまでに旺盛であった。

これは信玄存命の頃から家康と敵対関係にあったためではないかとされ、特に三方ヶ原の戦いにて徳川軍に阻まれた結果、武田軍は勝利したものの、信玄は上洛を果たせないまま陣中で死亡し、後の武田家滅亡の遠因にもなっている為、それが昌幸に家康への並外れた憎悪を抱かせるに至ったのだと思われる。

また、信玄の死後に徳川家と同盟を結んでいた際、徳川家と北条家の和睦の条件として真田の領地である沼田を明け渡すよう家康に言われたのが不服であったからとされてもいる。


その後、秀吉から徳川の与力大名になれと言われた際も、家名存続の為に嫡男・信幸(信之)を送り込んでいるが、一定の距離は保っている。

自領の周囲が家康の脅威にさらされていたにもかかわらず、それでも家康に対する敵対姿勢は緩める事無く、家康が出陣していないとはいえ2度の上田合戦で勝利した事からも、昌幸の自負心の高さが窺える。

だが、関ケ原の戦いで再度裏切る選択を取った事は、完全に裏目に出てしまう事になり、家康の高い憎悪を買っていたこともあり西軍の主犯格の一人と見なされ宇喜多秀家織田秀信同様、一度は死罪を申し付けられる。信之が徳川方についた事などから真田家自体は存続でき昌幸も一命は助かったが、以降は決して赦免が許されないまま、昌幸は晩年を過ごし、この世を去る事になってしまった。


昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねた。

それに対して正信は昌幸は「公儀(政府。江戸幕府を指す)御憚りの仁」であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告している。

死してなお、昌幸は容易に許されず、それだけ家康の怒りを買ってしまった事を窺わせるが、これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が「偽装死」ではないのかと半ば疑っていた事も示唆している。

事実、徳川家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。しかし、実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。


筆まめ編集

昌幸は非常に筆まめだった。

  • 大名時代から信之、家臣の河原氏などに対する書状が確認され、流人時代には信之や近臣に頻繁に書状を送っている。
  • 流人時代には彼らから生活の援助を受けており答礼を記したものもあるが、書状の中では旧主として振る舞っているようにも見られ、昌幸の芯の強さが窺える。
  • 一方で昌幸は我が子を愛しており、死去する1か月前には信之に何としても会いたいという気持ちを吐露する書状を送った。

囲碁編集

昌幸は囲碁をよく打った。江戸時代後期、文政2年(1819年)三神松太郎が編纂した『古棋』には、昌幸と信之のものとされる棋譜が収録されている。真偽は不明だが、棋譜によると196手で白番(後手)の昌幸が中押し勝ちを収めている。


関ヶ原編集

徳川秀忠が西軍についた昌幸と信繁の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。

  • 兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、昌幸に報告すると「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。
  • その言葉通り、再び兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという。

墓所編集

昌幸の葬儀に関しては不明である。


  • 死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだという。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されている。
  • また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である佉(人偏に「去」)羅陀山善名称院が開かれている。別称の真田庵というのは、大安が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田庵と呼ばれるようになった。

評価編集

信玄からは次兄・昌輝同様に「我が眼がごとく」と言わしめ、徳川の大軍を2度にわたって敗走させるなど、この時代きっての武将であるのは間違いない。ただし、武田家滅亡以降(真田家の維持のために止むを得なかったとはいえ)→織田信長(本能寺の変により死亡) →北条氏直(戦に助成するも直ぐに別離)→徳川家康(沼田領地の没収命令に憤慨して裏切る)→上杉景勝(徳川と戦する為に助成を求め同盟)→豊臣秀吉※(天下統一により上杉家と共に臣下の礼をとる)、5度にわたって主家を変えたことから、秀吉からは「表裏比興の者」(老獪な奴の意)、家康からは「稀代の横着者」(狡猾な奴の意)、といったとの評価をされ、『三河後風土記』には「生得危険な姦人」(腹黒く悪賢い人物)と記録されている。

※(昌幸の主家は豊臣家だか、昌幸と徳川家康の関係は家臣なく「与力大名」と呼ばれるもので、軍団活動時に昌幸は家康の指図を受ける立場となる、昌幸が徳川家来になったわけではない。また、秀吉は特に昌幸については、上杉景勝の与力扱いから外しただけで、実質的には豊臣直臣化したといってよい扱いをしている。この後も家康を全く介することなく、直接昌幸に指示を発しているのである、秀吉から昌幸に宛てた書状は数多く今に伝わっている、それに対し、家康あるいは徳川方から昌幸宛ての書状類は全く見られないのである。 )


松永久秀等と同様、武将として恐れられていても信用が全くない人物とされており、最終的に九度山へ軟禁状態にされてしまったのも、徳川家へ二度目の裏切りを重ねてしまった故の結末と言われてしまえば、やはり仕方の無い事かもしれない。

それでも現在において昌幸の人格的評価がそれほど悪くないのは、天正壬午の乱のとき、小笠原貞慶木曾義昌は積極的に領土拡張に乗り出してるが、真田昌幸はひたすら現領地の維持にしか努めていない、豊臣秀吉に真田領の全てを安堵されて以降は、おとなしく臣従している。

度重なる謀略や手のひら返しは野心ではなく、ひたすら「真田の家や領地を守る」ために頭脳をフル回転させているイメージの評価が多い。


また次男の幸村(信繁)が圧倒的な人気をほこり、創作作品などでは幸村の師匠のように扱われてるためでもある。

やもすれば、その信繁の影に隠れつつもあるが、大坂の陣が始まるまでは真田と言えば昌幸・信之のことであり、当時、信繁は無名の扱いをされていた。江戸時代260年続いた真田家を作り上げたのはまさしく昌幸の功績なのである。


余談に近いが、九度山に配流されてた時、生活のため編んでいた紐が「真田紐」と呼ばれるようになり、寄生虫「サナダムシ」がこれに似ていたことから語源となったとされるが、一説にはサナダムシに悩まされた家康が「真田は虫になってまでもこのわしを苦しめる!!」と嘆き、腹立ち紛れにつけたともされ、家康の真田アレルギーの大きさを物語っている。


創作作品編集

武田信玄絡みの作品で登場の多い父・幸隆や、単独で物語の主人公にもなりえる次男・信繁(幸村)に比べて、昌幸の出番は少なく、幸村が出て昌幸が出ないことはあっても、昌幸が出る作品で幸村が出ないことはまずない。


信長の野望」などの戦国SLGではほぼ皆勤。

能力値は幸隆や幸村に劣らず非常に高く、真田家が独立している場合の当主はほとんどが昌幸となっている。


戦国大戦編集

CV 小野大輔(1570)、中村悠一(1590以降)

「1570 魔王上洛す」「1590 葵、関八州に起つ」「1600 関ヶ原 序の布石、葵打つ」「1477-1615 日ノ本一統への軍記」にて計4枚が登場。レアリティは全てSRという破格の扱い。


所属は1590までは武田家、1600以降は真田家が追加されたので真田家に所属。

どの昌幸もコスト比に対する武力はやや低いが、統率がかなり高く、相手を撹乱妨害するようなトリッキーな性能になっている。


1570年版編集

詰め合わせ②

2コスト武力6統率9の騎馬、特技に「制圧」を持っている。高い統率を生かしての連続突撃や制圧を活かしての大筒の占領等を得意にしている。

計略は士気4の妨害陣形『信玄の炯眼』。敵に掛かっている計略による武力と統率の変化を無効化し、超絶強化の最大の天敵とも言える。一方で突撃ダメージや槍撃ダメージは無効化が出来ず、何より味方が敵に掛けた計略による武力と統率の変化すら無効化する為、注意が必要である。


1590年版編集

1590初SR!

2,5コスト武力7統率11の騎馬、特技に「魅力」、「伏兵」を持っている。統率に関しては瀬田旗を除けば、騎馬では昌幸より高い者は居ない為一方的に突撃することが可能で、伏兵によるダメージも強烈である。

計略は士気5の妨害計略『表裏比興の鬼謀』。範囲内にいる部隊数に応じて効果が変わる計略で使いにくいものの、相手に与えるプレッシャーは大きいので相手の足並みを崩すことも視野に入れての運用が求められる。

戦国無双編集

武器 刀 CV 江川央生(1)、高塚正也(2)、藤本たかひろ(3)


戦国無双シリーズ全編において、モブキャラクターながら重要な立ち位置や活躍が描かれており、上田城の戦いではその謀将ぶりを遺憾なく発揮している。信玄の家臣時代の活躍は、息子の信之・幸村が代わりに担っている形であり、あまり登場しない。

また戦国無双2の、戦国図鑑では稲姫の関連物に彼の甲冑があった。


戦国無双~真田丸~編集

武器 旗付き槍 CV 三宅健太

詳細⇒真田昌幸(戦国無双)

【腐向け】勝昌ログ


100万人の戦国無双編集

いい父子の日!

こちらでは、今作オリジナルデザインで登場。赤い着物に采配を持ち、飄々とした人物に描かれている。


戦国BASARA真田幸村伝編集

声:大塚芳忠

詳細は真田昌幸(戦国BASARA)


真田丸編集

演:草刈正雄

第6話の父ちゃんもホントしびれた

本作の主人公は信繁であるが、信繁およびその兄である信之が成人するまでは真田の滅亡を防ぐべく諸国の大名たちとのコネ作りや駆け引きに奔走する等、信繁に勝るとも劣らない活躍する。ある意味、中盤までにおけるもう一人の主人公とも言うべき存在(もっとも、上で書かれているように信繁の名が広く知れ渡るようになったのは大阪の陣であり、それまでは真田=昌幸・信之という認識で信繁は殆ど無名の存在であったため、ある意味史実通りの展開と言える)。


信濃の国衆たちを取りまとめる存在でもあるが、史実において「表裏比興の者」と称されていたような掴みどころの無さ故に、彼に対して不信感を抱いている者も多い。特に室賀正武とは犬猿の仲で、上杉家へ送るはずだった書状を奪われて信長に密告され、危うく蹴落とされかける描写もあった(もっとも、昌幸にとってはそれすらも想定の範囲内のことだった)。

DEATH LETTER

基本的にどこか飄々とした茶目っ気のある人物として描写されているが、一方で武田家家臣として権謀術数渦巻く戦国の世を生き抜いてきただけあって根はシビアなリアリストであり、北条・上杉の双方を信濃から撤退させる策のために春日信達高坂昌信の子)を利用した挙句謀殺したり、信繁とお梅の祝言を利用して室賀正武を暗殺するなど、目的の為には手段を選ばない黒い一面を見せたこともある。ただ、前者に関しては、信繁に畏れを抱かれることになると同時に、「なるべく犠牲を出さずに戦を進める」という信念を抱かせるきっかけともなり、息子の成長を促す要因の1つとなっている。


余談だが、手に胡桃を握っていることが多い。これは「真田太平記」で草刈氏が真田幸村を演じたおり、父・昌幸を演じた丹波哲郎氏が同じことをして策を練っていたところから、丹波氏の演技を真似たと語っている。

また、動物の毛皮で作られた羽織を着ていることが多く、ワイルドでお洒落だと視聴者から評されたことも。


これら、「昌幸ロス」含めた彼の大人気ぶりから、とうとうピクシブで単独記事が出来ている。

真田昌幸(真田丸)


どうする家康編集

演:佐藤浩市

【どうする家康】第33回『裏切り者』【大河ドラマ】

乱世を泳ぐは愉快なものよ

33回「裏切り者」にて初登場。

小牧・長久手の戦いで、秀吉からの調略に乗っかるかたちでかつて自領だった沼田の奪還を決行し、家康のトラウマである信玄から継承した知略で家康に煮湯を呑ませた。多少黒い一面もあれど、真田丸におけるお茶目で領民思いな性格だった草刈氏の昌幸とは対照的にコミカルな描写は皆無であり、過去シリーズに以上に博徒じみた食わせ者の雰囲気を纏っている。佐藤氏のダンディーな演技も相俟って非常に強いインパクトを視聴者に与えた。また前作「鎌倉殿の13人」でも上総広常役で出演していたため、多くの武衛ファンが佐藤氏の昌幸役としての登場に歓喜の声を上げた。


殿といっしょ編集

真田昌幸さん。

CV:伊藤健太郎

他人をおちょくることに長け、次男・幸村と組んで徳川方をイジり倒しているバカ親父。生き残るためなら手段を択ばず、嫡男である信之の悩みの種である。お得意の人心掌握を活かした外交戦術に長けているが、信之に説明する時にはなぜか真田家を美少女「サナ」に擬人化し、乙女ゲーム風の寸劇を挟む。

変装が得意(ただし信之にはすぐバレる)で、レパートリーも異常に豊富。探偵に化けた時のコードネームは「のぼりばしごのマサ」


真田魂編集

昌幸様と山手様(左端)

本作の主人公。『信長の忍び』三方ヶ原編に登場する真田兄弟の弟。

武田信玄の「眼」と呼ばれていたことを誇張したキャラ付けがなされており、人物や世相を見抜く力に加え、縁側から庭木に止まったを見るなど「視力」もずば抜けて高い(そのため、浅間山噴火の際には人一倍苦しめられていた)。

公私混同せず冷静に物事を見ることのできるクレバーな人物だが、スネると下駄を投げて怒る。下駄投げに関してはやけに年期が入っており、飛んでいるを落とせるほどの精度を誇る。

妻を「離れ離れになったら敷布団にお前の絵を描いて持って行く」と本気で言い放つほど溺愛しており、かなりスケベでもある。



関連項目編集

武田信玄 武田勝頼 上杉景勝 豊臣秀吉

真田幸隆 真田信之 真田信繁

織田信長 北条氏政氏直 徳川家康秀忠

戦国大戦 信長の野望

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