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北条氏邦

ほうじょううじくに

北条氏邦とは、関東地方の戦国武将。北条氏康の五男で、元服当初は義父・藤田康邦の後を継いで藤田氏を継いでいた。北関東方面における攻略・統治において多大な功績を残し、小田原征伐では鉢形城に籠城して豊臣軍と戦うが降伏した。(1548年-1597年)
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概要編集

生没:天文17年(1548年)~慶長2年8月8日(1597年9月19日)

主君:北条氏康→北条氏政→北条氏直→前田利家


相模の戦国大名・北条氏康の五男(※)。幼名は乙千代丸(もしくは千代丸)。姉に早川殿、兄に北条新九郎(氏親)・北条氏政北条氏照北条氏規がおり、弟には北条氏光北条氏忠北条三郎(上杉景虎)がいる。


※長らく天文10年(1541年)生まれで氏康の四男(長兄・氏親をカウントした場合)として知られたが、現在では元亀年間における北条家中での序列や受領の格などから、従来弟と見られてきた氏規(天文14年(1545年)生まれ)よりも年下であるとの見解が有力視されている。この序列はその後天正年間に入り、北関東の統治における功績によって大幅に引き上げられ、氏規と逆転する格好となったとされる。


後述の用土重連暗殺事件や、名胡桃城占拠などの当事者であった事などから、後世の創作作品などでは激情的な性格であると見られる事も多いが、必ずしも史料による裏付けがある訳ではない事に留意されたい。また一方で上野・北武蔵といった領内において、養蚕・林業といった殖産事業にも力を入れ、後には生糸産業の一大拠点にまで育て上げるなど、武功のみならずその方面においても多大な業績を残している。


生涯編集

前半生編集

永禄元年(1558年)頃、上野攻略を見越しての父・氏康の判断により、武蔵北部の有力国衆・藤田氏に養子として入る。後に藤田康邦の娘を娶って元服し、藤田氏邦と名乗って藤田氏の名跡を継承した。

兄・氏照と同じく武勇・統治に優れており、鉢形城を本拠として北関東の最前線と上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いをはじめ、各地を転戦して武功を挙げ、北条氏の領土拡大に大きく貢献した。


しかし、藤田康邦の実子である用土重連(氏邦とは義兄弟の関係)とは次第に確執が生じ初め、天正6年(1578年)に重連が沼田城代に任命されると、その不満からまもなく重連を暗殺に追いやる。この事件は2年後の天正8年(1580年)、重連の実弟・藤田信吉が武田氏に寝返るという事態へと繋がる事となる。


長年敵対してきた越後の上杉氏との折衝役の一人でもあり、永禄12年(1569年)には越相同盟の取りまとめにも携わった他、天正6年に発生した上杉家中での内紛(御館の乱)においては、当事者の片一方で氏邦の実弟でもあった上杉景虎(北条三郎)からの要請に応じ、長兄・氏政の名代として次兄・氏照と共に越後へ出陣。敵対する上杉景勝の居城・坂戸城へ攻め入るが、景勝方の守備が強く更に冬が近づいた事によって撤退を強いられる事となった。この撤退の後、景虎は景勝に敗れて自害するという悲運を辿っている。


上州を巡る紛争~小田原征伐編集

天正8年の時点で北条氏は織田氏と同盟を締結していたが、一方で織田氏による関東政策を巡って不信感を募らせてもおり、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生し甲信・上州方面の統治にも揺らぎが生じると、これを好機と見て取った北条氏は上野への侵攻を開始。氏邦もこれに参戦し、神流川の戦いでは甥・氏直を補佐して滝川一益を敗走させ、続いて徳川家康らと争った天正壬午の乱での軍事行動にも引き続き従った。しかしこの一連の勢力拡大は、当時沼田を領有していた真田昌幸との対立を招くことともなった。この頃までには北条に復姓していたらしい。


この沼田領を巡る紛争はその後、豊臣秀吉の裁定によって真田が北条に沼田城を含む2/3の領域を明け渡す事で落着し、沼田領は氏邦の宿老でもあった鉢形衆の猪俣邦憲が、沼田城代としてこれを管轄する事となった。ところがその後、真田氏が引き続き支配する事となった残りの1/3を巡り、天正17年(1589年)に猪俣が真田氏の治めていた名胡桃城を占拠するという事件が発生する。この一件、軍記物などでは猪俣による独断とされる一方、彼がその後処罰された形跡もない事などから、予てより豊臣政権への反感を持っていた氏邦らの関与も根強く疑われている。


ともあれ、名胡桃城占拠の件が秀吉の発した「惣無事令」に反するものと見做された事により、翌天正18年(1590年)には小田原征伐が開始される。これに際し、氏邦は小田原での籠城策に反対し、大規模な野戦に持ち込む事を提案するが受け容れられず、結局本拠の鉢形城に籠もって抗戦を図る。しかし前田利家の率いる大軍の前には衆寡敵せず、鉢形城を包囲された末に降伏を余儀なくされた。この時、敵方の将として氏邦に降伏の説得に当たった一人が、因縁浅からぬ藤田信吉(この時は上杉氏の重臣であった)であり、戦後は信吉や利家の助命嘆願もあって剃髪・蟄居する事で一命を取り留め、後に前田家臣として能登に1000石を得た。


慶長2年8月8日(1597年9月19日)、加賀金沢にて氏邦は56歳の生涯を閉じた。実子は4人いたがそのうち3人が早世していた為、前田利益(慶次)の娘を娶っていた末子・庄三郎が父の知行を継いだ。また氏政の子で養子としていた直定は徳川家に属し、こちらの子孫は紀州徳川家の家臣となっている。


戦国無双での北条氏邦編集

武器:刀剣 CV:岡本寛志(2emp、4) 草尾毅(3)


「北条の底力、見せるは今ぞ!」(3猛将伝・ガラシャの章:忍城攻めより)

「は…お嬢ちゃん、ありがとう!」(ミッションクリア時の台詞)


1作目の猛将伝では今川義元の無双演武で兄2人と共に登場し彼ら3人を倒す「北条三兄弟」というミッションがある。


戦国無双2ではempiresのみでの登場となった。


戦国無双3猛将伝』のガラシャの章では忍城攻めの援軍として登場し、ミッションの条件の1つである「北条氏邦が敗走する前に、真田幸村とくのいちを倒せ」をクリアすると父・氏康から先走った事を注意されるが、その一方でに感謝しておけと言われてその際に上記の台詞を呟いている。


戦国無双4では、兄2人とそろって固有グラフィックの一般武将として登場した。

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