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北条氏綱

ほうじょううじつな

北条氏綱とは北条早雲の長男で名君・北条氏康の父である。(1487年-1541年)
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家督相続

1487年、伊勢盛時(北条早雲)の嫡男として生まれる。弟に氏時、氏広、長綱がいる。

氏綱が生まれた年、父・早雲は小鹿範満を滅ぼして龍王丸(今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。

1495年に小田原城が父・早雲の手によって落城すると、氏綱は小田原城を預かった。ちなみに1512年の在番から3年後に新九郎が誕生している。

1518年に父の隠居により家督を継ぎ、当主となる。翌年に父・早雲が死去すると実質的に当主となった。

内政と改名

氏綱の家督相続とともに伊勢氏は虎の印判状を使用する事が多くなった。印判状が無い徴収命令は無効。郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられる。

今までは守護が直接百姓に文書を発給することは無かったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになった。

また氏綱は本拠地を小田原城に変更し、家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行う。

1521年-1527年の間は寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建や相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を積極的に行っており、その際に「相州太守」と名乗り、事実上の相模の支配者である事を主張した。

寺社造営事業の再建中の1523年頃から、朝廷に願い出て伊勢氏から後北条氏へと名前を改めた。ただし、この改名には理由があった。

父の早雲は1493年に起こった明応の政変を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化。更に相模平定に成功するが、山内上杉家と扇谷上杉家の反発を買った。

領国支配を正当化するために執権北条氏の後継者である事を認める発想は早雲の代からあったが、氏綱の代にてようやく成功したのであった。

ちなみにこの改称から数年後に左京大夫に任命され、家格的にも周辺の今川氏や武田氏、上杉氏と同格の扱いを受けた。

扇谷上杉家との抗争

氏綱は父の命により、軍事行動は一時停止していた。そして1523年以前から武蔵国南西部の久良岐郡一帯を経略。国人衆を服属させた。

だが、これが上杉朝興(上杉朝定の父)の耳に入ると朝興は危機感を感じて山内上杉家と和睦をして氏綱に対抗した。

1524年正月、氏綱は高縄原に進軍して上杉朝興軍を破った。更に江戸城を守る太田資高を内応させて江戸城を奪取。

更に江戸城奪取後に追撃して板橋兄弟を討ち、その上に太田備中守が守る岩付城を備中守の弟・太田資頼を調略して落城させる。(太田資頼は後に上杉家に帰参。)

これに留まらず、蕨城も攻略。そして毛呂城(後の山根城)主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂-石戸間を獲得。これで敵の松山城-河越城間の遮断に成功した。

しかし氏綱の快進撃はここまでであった。それは朝興が上杉憲房の支援により態勢を立て直し、古河公方・足利高基と和解。

しかも朝興は武田信虎と結んだ事により形成は逆転され、これより一進一退の攻防が続いた。

大反撃と今川家の独立

氏綱の苦境は敵陣営の内紛によって救われる。1533年に里見家で内乱が起き、里見義豊が叔父の里見実堯と正木時綱を粛清した。氏綱は実堯の遺児・義堯を援助して義豊を滅ぼさせて里見家と和解。

1536年に今川氏輝が死去して起こった花倉の乱では栴岳承芳(今川義元)を支援。これにより栴岳承芳方が勝利するが、翌年義元は武田信虎の娘・定恵院を娶って甲駿同盟を成立。

氏綱は激怒して同盟を破棄し、駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して奪取。これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。

更に1537年に上杉朝興が死去して朝定が継ぐと扇谷上杉家の本拠地・河越城を落とし、息子・為昌を城代に置いた。1538年には葛西城を攻略して房総への足がかりを築く。

房総への進出は古河公方とは利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると足利晴氏は氏綱・氏康父子に対し「小弓公方を退治せよ」との命令を下した。氏綱はこれを承諾。

同年10月7日、氏綱は足利義明と里見義堯らの連合軍と国府台で戦う。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に勝利し、義明を討って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大する事に成功した。

だが上杉朝定が上杉憲政と手を結び反撃の兆しを見せたり、更に今川軍との戦いも長期化。

この様な状況の中で氏綱は1541年に病に倒れた。氏綱は若い氏康の器量を心配して、5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。

以下はその要約である。

大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。必要のない民などいないからである。
決して驕らず、またへつらわずに、身にあった分限を守ること。
倹約に勤めて重視すべし。
勝利はほどほどにせよ。勝利し続けると、自らに驕り、敵を侮ることがあるからである。
と言い残して同年7月19日死去。享年55歳。

信長の野望

覇王伝PK版から初登場。能力は少し低めだが、天道で後北条家の地盤を固めた事が評価され、政治面が110と息子(107)を上回った。

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