清和源氏足利氏の支流で、足利氏3代当主・義氏の庶長子・吉良長氏の次男・国氏が三河国幡豆郡今川庄(愛知県西尾市)を領し、今川四郎と称したことに始まる。
室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家のため、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていた。
伊勢盛時(北条早雲)の助けで家督争いに勝利した今川氏親は遠江へ侵攻して遠江守護職を獲得し、駿河・遠江国を支配する戦国大名となった。
今川氏親の子・今川義元は甲相駿三国同盟で背後を固めて三河を併合し、尾張の一部も所有して「海道一の弓取り」と呼ばれたが、桶狭間の戦い(1560年)で敗死し、今川家は衰退する。
江戸時代は子孫が高家としてわずかに家名を残したが、1887年に嫡流は絶家となった。