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肥前今川氏

ひぜんいまがわし

肥前今川氏とは、駿河など東海地方の大名として有名な今川氏の分家。
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概要編集

南北朝時代の1371(応安4)年、九州探題に任命された今川了俊(貞世)の弟・仲秋が肥前へ下ったのが始まり。仲秋の帰京後、肥前千葉氏の母を持つ四男の国秋に肥前佐嘉郡が与えられ土着することとなった。

しかし結果的に肥前千葉氏との縁が災いし、1404(応永11)年に国秋は千葉氏に謀反した鑰尼泰高を討伐しようとするも返り討ちにあい討ち死に。その子・国治と孫の秋弘は千葉氏の家督争いに介入して1438(永享10)年に討ち死にするなどさんざんな結果になってしまった。


そして1465(寛正6)年、千葉氏の軍勢が今川氏の居館を襲撃した。これは千葉氏の勢力減退を狙った九州探題・渋川教直が「今川胤秋(当主となっていた秋弘の弟)が千葉介教胤(千葉氏当主)を討たんとしている」と流言を流した結果であるが、千葉の執権である中村胤頼は確かめることなく侵攻。5月20日に2,000余騎で今川の城を3日間攻撃するが落とせず、今度は逆に今川が24日に胤頼の陣へ攻め掛かった。ただし、日没となり両陣退いた後に和睦に至ったものの、この戦いにより今川・千葉両氏は手切れとなり、1467(応仁元)年に胤秋と渋川教直の連合軍が千葉氏と戦いになるが返り討ちとなり、胤秋は討ち死にし今川領は千葉氏に吸収されてしまった。


1470(文明2)年、胤秋の遺児・義秋が旧臣を集めて挙兵するも敗死。胤秋の弟・秀秋(秋秀とも)が「持永」に名字を改めて千葉氏に仕え、その千葉氏が東西に分裂し少弐・大内の争いに翻弄され滅亡すると、以後龍造寺氏を経て鍋島氏に仕え佐賀藩士として過ごした。

参考文献編集

  • 佐賀縣小城郡牛津町史(牛津町史編纂委員会。1958年12月)
  • 佐賀縣佐賀市史・第一巻(佐賀市史編纂委員会。1977年7月)
  • 佐賀縣小城郡牛津町史(牛津町史編纂委員会。1990年3月)
  • 北肥戦誌(九州治乱記)(馬渡俊継原著。青潮社。1995年1月)

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武家 今川家

島田陽七:女系子孫とされる。

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