今川了俊
いまがわりょうしゅん
九州赴任
南北朝時代・室町時代の武士・歌人で、今川家の庶流・遠江今川家の祖。
了俊の名は2代将軍足利義詮死去に伴い出家した際の法号であり、元の名は今川貞世という。
正中2年(1325年)、または嘉歴元年(1326年)に今川3代・今川範国の次男として出生。
12、3歳の頃に祖母の香雲院の指導のもと和歌を始め、16、7歳頃に京極為基に師事した。吉田兼好とも交流があり、兼好死後にその従者で弟子だった命松丸を引き取っている。
了俊は武士として侍所や引付頭人などを歴任していたが、応安3年(1370年)に管領の細川頼之から九州探題に推薦され、応安4年(1371年)に弟の今川直世(後に氏兼)・今川仲秋らと共に懐良親王の征西府打倒のため九州へと赴任し、年末に上陸。
手始めとして、周防・長門・石見守護の大内弘世を大将に任じて門司親頼の猿喰城を攻略させたのを皮切りに、南朝方を次々と切り崩して応安5年(1372年)8月には大宰府攻略を果たし、11月には南朝本拠のある肥後にまで勢力を伸ばした。これに責任をとったものか、懐良親王は永和元年(1375年)頃に征西大将軍を返上し、後村上天皇の皇子である良成親王が後任となる。
水島の変
永和元年(1375年)7月、肥後の水島にまで軍を進め、そこで九州の三大勢力である豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らに来援を呼びかけたが少弐だけは応じず、島津に促されてようやく来陣した。
その水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺。その理由は、冬資が二心を抱いていたこと、筑紫の乱れの元が少弐であること(少弐冬資は宗像大宮司家の社領を押領しており了俊はそれを諫めている)などを挙げたが、面目をつぶされた島津は離反して帰国、大友も帰国し以後は支援を躊躇するようになる。
了俊は自らの起こしたことながら窮地に立たされ、9月に水島より撤収したが、肥前へ通じる道を南朝へ通じた冬資の弟・少弐頼澄の軍勢に塞がれ、これを大内義弘ら中国勢の支援により追い払えたのは翌年の9月であった。
征西府攻略
その後は徐々に勢力を回復し、永和3年(1377年)1月には肥前蜷打で南朝方に大勝した。同年9月、高麗からの使者が来訪し倭寇対策を話し合う。これ以降より幕府出先機関の代表として了俊は高麗との外交を頻繁に行うようになる。またこの頃、了俊は安芸・備後・筑前・筑後・肥前・肥後・大隅・薩摩の8国の守護に任じられている。
康暦2年(1380年)10月、水島陣を取り戻す。南朝方は益々士気が低迷し、南朝方の領地は豊後の一部、筑後の矢部付近、肥後の中部くらいにまで減少、更に永徳3年(1383年)に懐良親王が薨去する。了俊はこれで余裕が生まれたか以降は攻略を急がず、征西府を降したのは明徳元年(1390年)の9月であった(良成親王は逃亡)。全国的にも北朝勢力が圧倒的となり、明徳3年(1392年)10月に南北朝合一も為された(明徳の和約)。
晩年
応永6年(1399年)に大内義弘が堺で挙兵する。了俊によるとこのとき、甥で今川5代の今川泰範が了俊が自ら所望して駿河守護職を得たものとして恨みを抱き、了俊が大内と通じていると足利義満に讒言して了俊と仲秋の守護職を奪い取ったとされる。
更に了俊がこれに怨みを抱いて、鎌倉公方の足利満兼に乱への呼応を呼びかけたとして、幕府より了俊追討令が出された。しかし、まんまと守護職を奪った泰範が了俊の助命嘆願をしたことで許された。ただし、今川姓を名乗ることを禁じられ、「堀越」を名乗っている。
以降は執筆活動に勤しみ、応永27年(1420年)に95歳で没したとされる。ただし、応永25年(1418年)に僧の正徹が著した『なぐさめ草』では、了俊は既に故人であると記されている。