概要
嘉暦3年(1328年)、第96代・後醍醐天皇の第七皇子として生誕、母は阿野廉子、諱は「義良(のりよし)」と定められる。
親王が生誕する以前から後醍醐天皇と鎌倉幕府との関係は悪化、正中元年(1324年)には「鎌倉幕府打倒の謀議」が漏れ、天皇が幕府に対して詫び状を書く事件が起こった。
が、これ以降も後醍醐天皇の「鎌倉幕府打倒」の意思は変わらず、元徳3年(1331年)、天皇の側近・吉田定房が六波羅探題に密告する事件が起こった。
この事件により、幕府は後醍醐天皇を廃すると新たに光厳天皇を立てて、後醍醐廃帝を隠岐に流し、「鎌倉幕府打倒計画」は潰えたかと思われた。
しかし、しばらくすると護良親王が吉野で、楠木正成が河内で挙兵すると、各地で反幕府の兵が上がり、元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を滅ぼすに至った。
隠岐より京に帰還した後醍醐廃帝は鎌倉幕府に立てられた光厳天皇を廃すると「天皇」に復位、天皇親政を志して改革「建武の新政」を始め、地方の支配、鎌倉幕府残党討伐のため皇子を各地に派遣した。
義良親王も、元弘3年/正慶2年(1333年)、北畠親房・顕家父子に奉じられて陸奥・多賀城に派遣、陸奥将軍府を創設することとなった。
建武3年(1335年)、諏訪頼重・時継父子が鎌倉幕府執権・北条高時の遺児・時行を擁して兵をあげると、(建武の新政)に不満をもつ武士たちも呼応、一時は鎌倉を占拠される事態となった(中先代の乱)。
乱自体は京より下向した足利尊氏によって鎮圧されたが、今度は尊氏自身が反旗を翻した末、京へと侵攻、報を受けた親王は北畠親房・顕家父子とともに尊氏軍と戦いこれを撃破。
親王はこれ以降も戦場にあって北朝方と戦いつづけるが、本拠である奥州に帰還しようとした延元3年/建武5年(1338年)、暴風雨にあって伊勢に漂着、吉野で立太子した。
延元4年/暦応2年(1339年)8月・父・後醍醐天皇の崩御に伴い即位した。
正平3年/貞輪4年(1348年)、北朝方の高師直に吉野を襲われ、紀伊に行宮を遷す。
以後、足利尊氏と足利直義の対立が起きると、双方が相次いで降参すると、北朝は崇光天皇を廃して足利氏打倒の方策を採った。
正平7年/文和元年(1352年)、河内国東条の行宮から京に一時的に帰還するが、足利義詮の軍勢に追われてしまう。
が、このとき南朝方は、北朝方が奉じた光厳、光明、崇光の三上皇と皇太子・直仁親王を賀名生に拉致しており、北朝の正当性が疑われる事態になってしまった。
あわてた尊氏は北朝方皇族のなかで唯一仏門に入ることになっていた弥仁親王を擁立、皇位を継ぐこととなった(後光厳天皇)。
これらの戦乱をよそに天皇は各地の行宮を転々としたまま、正平23年/応安元年(1368年)、住吉行宮において崩御した。
皇統
- 女御:北畠親房の娘
- 女御:藤原氏
・寛成親王(第98代・長慶天皇)
・皇子
- 典侍:藤原氏
・熙成親王(第99代・後亀山天皇)
- 不詳
・惟成親王
・泰成親王
・師成親王
・説成親王