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光厳天皇

こうごんてんのう

鎌倉時代末期、隠岐に流された後醍醐天皇に代わって鎌倉幕府に擁立された天皇。北朝第1代。
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生没年 正和2年(1313年)~貞治3年・正平19年(1364年)

概要

人物

持明院統の流れをくむ第93代天皇・後伏見天皇を父に、前左大臣・西園寺公衡の娘・寧子(広義門院)を母として生誕、名は量仁(かずひと)、北朝第2代・光明天皇は同母弟にあたる。
皇子には藤原秀子を母とする興仁親王(後の北朝第3代・崇光天皇)、弥仁親王(後の北朝第4代・後光厳天皇)、義仁親王らがあった。

鎌倉幕府滅亡

元弘元年(1331年)、大覚寺統の流れをくむ第96代天皇・後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画が発覚、天皇は正中元年(1324年)にも同様の計画を企図し発覚、幕府に謝罪の意を示す誓紙を提出することでこの場は収まっていたが、二度目いうことも今度ばかりは幕府に許してもらえず後醍醐天皇は隠岐に流されることとなった。
笠置山に逃れた後醍醐天皇はこのとき三種の神器の提出を拒んだものの、結局は鎌倉幕府から量仁親王に渡されて即位、後伏見上皇による院政が開始された。

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子であり比叡山延暦寺天台座主・護良親王が鎌倉幕府打倒の令旨を発すると、これに楠木正成赤松円心らが呼応、鎮圧軍を指揮していた有力御家人・足利高氏が朝廷側に寝返ると各地で反幕府の兵が立ち、同年5月22日、ついに幕府は滅亡した。
鎌倉幕府滅亡に先立つ5月7日、後伏見上皇・光厳天皇父子は六波羅探題北方・北条仲時とともに東国に逃亡していたが、近江において佐々木道誉に阻まれて仲時は自刃、後伏見上皇・光厳天皇は京につれもどされ、光厳天皇は伯耆から都に戻った後醍醐天皇に廃された。

なお、南北朝正閏論の観点から、南朝正統論者の意向もふまえて、明治以降歴代の天皇から除かれることになった。北朝第1代。

建武の新政の失敗、足利尊氏の離反

公家や神社仏閣を優遇する後醍醐天皇の新政は鎌倉幕府打倒に功のあった武士たちの不満を招き、建武2年(1335年)、北条時行(得宗北条高時の次男)率いる幕府残党3万が迎え撃った足利直義を鎌倉に撃破すると、直義の兄・尊氏(高氏から改名)は下向し叛乱軍を鎮圧、しかし、尊氏・直義兄弟は朝廷からの帰洛命令を無視、鎌倉にとどまりつづけた。
業を煮やした朝廷は新田義貞らに追討させようとしたが失敗、足利軍は京の都に攻めあがった。
このときは楠木正成、北畠顕家らが足利軍を九州に追い払ったが、朝廷から離反した赤松円心が楠木・新田両軍を播磨に釘づけにし、足利軍が西国の武士を味方につけ盛り返すまで耐えつづけた。

足利軍は湊川の戦で楠木正成・正李兄弟を敗死、新田義貞を敗走させるとともに、尊氏は光厳廃帝の弟・豊仁親王を皇位に擁立(光明天皇)、光厳上皇による院政が開始された(北朝)。尊氏は直後に室町幕府の基本方針である「建武式目」を制定する一方、後醍醐天皇はまもなく吉野に遷り独自の朝廷を作り(南朝)、二つの朝廷による対立の歴史がはじまった(南北朝時代)。
暦応元年・建武5年(1338年)、足利尊氏は征夷大将軍に任じられた。

観応の擾乱

貞和5年・正平4年(1349年)、幕政を担っていた・足利直義と軍事を担っていた執事・高師直の対立が表面化、直義が師直を討つと、今度は直義と尊氏・義詮父子の対立に発展、情勢の不利を悟った尊氏は南朝と和睦、北朝は廃されることとなった。
観応3年・正平7年(1352年)、直義と和睦(この年2月に直義は死去)し鎌倉にあった尊氏の留守中、南朝は和睦を破棄、光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子・直仁親王を拉致、河内金剛寺につれさられる事件が起こった。
この窮地に足利義詮・佐々木道誉らは仏門に入ることになっていた光厳上皇の第二皇子・弥仁親王を擁立(後光厳天皇)、北朝を再興することとなった。
その一方で、光厳上皇は夢窓疎石に帰依、禅僧として余生を送っていたが、貞治3年・正平19年(1364年)7月に崩御、山国陵(やまくにのみささぎ)に葬られた。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 南北朝時代 歴代の天皇
後醍醐天皇 足利尊氏

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