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神武天皇

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じんむてんのう

記紀における日本国初代天皇。神武天皇元年2月11日(庚午年1月1日、辛酉年1月1日、紀元前660年)に即位とされるが史実ではない。

日本神話日本史に登場する日本皇室の初代天皇

この御称号は奈良時代に撰進された漢風諡号で、和風諱号はカムヤマトイワレヒコノミコト(『古事記』では神倭伊波礼琵古命、『日本書紀』では神日本磐余彦尊)と申し上げる。 生前の御名を若御毛沼命(若々しい食物の主の意)。

生涯

紀元前721年、天照大神の4世子孫である鵜草葺不合命海神の娘玉依毘売の皇子として、ワカミケヌが日向(現在の宮崎)で生まれた。父君ウガヤフキアエズノミコトは、天孫邇邇芸命の御孫にあたる。


生誕地の九州日向で3人の兄弟と育ち、生まれながらにして賢く気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子になったという。

45歳になった甲寅の年、この地よりもっと相応しく豊かな東方の土地へ移住して都をかまえようと考えた。


瀬戸内海中国地方沿いに東征し、河内(現在の大阪)に上陸し、肝駒山を越えて大和(現在の奈良)の地へ向かおうとしたが、河内を支配していたナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗に遭い、熊野(現在の和歌山南紀)へ向かった。

この間に3人の兄が相次いで薨去し、全軍が倒れてしまうという危機を迎えたが、霊剣「韴霊」により全軍は目を覚まし、また天照大神が遣わした八咫烏の案内で無事に大和南部に入り、在地の人々を従えて、激戦を交えてナガスネヒコを倒し、ここに大和を平定した。


大物主神の娘であるヒメタタライスケヨリヒメ、または事代主神の娘ヒメタタライスズヒメを正妃に迎えて辛酉の年(西洋紀元前660年)2月11日に橿原宮で即位。名をカムヤマトイワレビコと改め、ハツクニシラススメラミコトと称する、神武天皇が誕生した。この時52歳。

この即位を以て日本の紀元元年とし、以前を神々の時代「神代」、即位以後を人間の時代「人代」と分けている。

その後、76年も天皇として統治。正妃との間には2人の皇子をもうけ、古事記によると137歳、日本書紀によると127歳で崩御したという。神武天皇陵は神武帝を祀る奈良県橿原市の橿原神宮のそばの畝傍山にある。


天皇の政治

アメノタネノミコトとアメノトミノミコトは祭祀を司って朝廷の政治に参加して、ミチノオミノミコトとウマシマヂノミコトは兵を率いて守衛を司った。また天皇が宮殿を橿原に営むと、上記の祭政や軍職と共に、正殿の建立・玉工・機織といった工業も世襲となった。

在位の間、神武天皇は心を政治に用い、国民はみな悦んだという。また神武天皇は農事を奨励して、アメノトミノミコトに麻・穀を総国・粟国に植えさせた。

神武天皇の崩御後は、8代にわたって父子で皇位が継承されていき、第10代崇神天皇に至ったが、その間に国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。


ハツクニシラス天皇(和風諡号の意味)

神武天皇は従来都のあった西方の日向筑紫を去って、東方の大和に遷った、大和朝廷第一代の天皇である。そのため日本書紀の神武天皇紀に、天皇を「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太しき立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇」と称えたとあり、かつこれは古伝承の語をそのままに記載した「古語」であると明記してある。

神武天皇の東遷による新日本の建設は、神話におけるニニギノミコトの降臨に対して「第二の天降」であると古代の日本人は考えたのであろう。


神武(漢風諡号の意味)

東洋の古典『易経』の繋辞伝の上に「神武而不殺」とある。すなわち「古の聰明睿智、神武にして殺さざる者か」(昔の、最もすぐれた知があり、計り知れない勇をそなえていて、人民の生命を尊重する仁を兼備した者であろう)という語が典拠で、つまり「神武天皇」とは「むやみやたらに殺すことが武ではない」という意味の、はじめて天下を治めた初代天皇の偉大さを賛した諡である。

また『書経』舜典にも「都帝德廣運、乃聖乃、乃乃文」とある。


橿原奠都の詔

紀元前660年の皇紀元年2月11日の神武天皇即位の詔。


我れ東を征ちしより、茲に、六年になりぬ。

皇天の威に頼りて凶徒戮に就きぬ。辺土未だ清らず。餘妖尚梗しと雖も、而も中洲の地、復風塵無し。

誠に、宜しく、皇都を恢き廊め、大壮を規り模るべし。

今、運は、此屯蒙に属ひ、民の心朴業なり。

巣に棲み、穴に住み、習俗惟れ常となれり。

それ、大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。

苟も、民に利あらば、何ぞ聖造たるを妨げん。

且つ、当に、山林を披き払ひ、宮室を経営りて、而して、恭みて宝位に臨み、以て元々を鎮むべし。


上(かみ)は、則(すなわ)ち、乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下(しも)は、則ち、皇孫(すめみま)、正(ただしき)を養ふ心を弘(ひろ)め、然る後、六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為す、亦可(よ)ならずや。

夫の畝傍山の東南、橿原の地を視れば、蓋し、国の墺区ならん、之に治るべし。


(口語訳)

上は天神の国をお授け下さつた御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。

その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩ひて一つの家とすることは、また良いことではないか。


(原文)

上則答乾靈授國之 下則弘皇孫養正之心

然後兼六合以開都 掩八紘而為宇 不亦可乎

觀夫畝傍山東南橿原地者 蓋國之墺區乎 可治之


(神武天皇即位前紀己未三月丁卯条)


史学的論争

実在性に対しては古くから論じられてきた。

まず根本的な問題として日本書紀や古事記は遙か後年の8世紀に成立した歴史書であって一次資料ではない。

また日本に文字が伝来したのは5世紀とされており文書で記録を残すことが不可能であった。


明治期の歴史学者那珂通世は1897年に記した『上世年紀考』において記述を批判し

讖緯説を採って神武紀元は「記紀編者の創作」と断じている。


また大正時代の1919年には津田左右吉が『古事記及び日本書紀の新研究』を発表。

厳密な史料批判を行い、神武天皇から仲哀天皇までの虚構性を明らかにしたが「皇室の尊厳を冒涜した」として1940年に出版法違反で起訴され1942年に有罪判決を受けた。


戦後には昭和天皇自ら人間宣言を行い、自ら神格を否定した。

また実弟で歴史学者であった三笠宮崇仁親王も「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」「神話と史実は切り離して研究されるべき」と公言。


こうした流れの中で弾圧から解き放たれ、自由な研究が行われるようになった。

中には邪馬台国論争と結び「九州にあった邪馬台国が畿内に移動もしくは分裂し、後の皇室になった」とするなどの見解もある。


ちなみに日本政府の神武天皇に関する公式見解は、日本神話の登場人物であり、実在云々については言及しない姿勢である。


欠史八代について

日本の皇室において神武天皇の以後八代にわたって名前以外の記録が残っていない天皇、いわゆる欠史八代の存在もあることから実在が疑われるのも当然である。

(なおキリスト教カトリック初期の教皇は一応なにを行った人物かという記録はある。)


それに対する反論もあるが、そもそも当時の日本は文書を残すどころか、文字が伝来していない。

実際、欠史八代以降もろくに記録が残ってない天皇が複数いる。


また稲荷山古墳が出土した際に発見された鉄剣の銘文には「意富比垝」と刻まれており、これを

八代の1人である孝元天皇の皇子であり、後に崇神天皇が派遣した四道将軍1人として北陸道へ派遣された大彦命に結びつける主張もあるが著しく年代がずれている。


皇統

  • 皇后:媛蹈韛五十鈴媛命(たしらかのひめみこ、事代主神の娘)

神八井耳命(かんやいみみのみこと)

・神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと、第2代・綏靖天皇

日子八井命(ひこやいのみこと)古事記のみ。

  • 妃:吾平津媛(あいらつひめ)

手研耳命(たぎしみみのみこと)

岐須美美命(きすみみのみこと)古事記のみ。


神武天皇にまつわる伝説

  • 記紀で兄との別離に差がある。古事記では次兄と三男は天皇が登場する前に海の国や常世へと旅立つが、日本書紀では海難で苦しんだ時に海へと飛び込んで「さひもちの神(ワニザメ)」になったと言われる。
  • 「海彦山彦」の悪役で有名な海幸彦(火照尊ないし火酢芹尊。天皇の祖父の兄であり、大伯父に当たる)と親交があり、海幸彦を祀った潮嶽神社には御東征前の天皇が行幸したことや、別れを惜しんだ現地の娘による神楽奉納の起源が語られている。
  • 日向市にある美々津には、天皇御一行をもてなした神話が現存する。旧暦8月1日の明け方に船出をすることになったため、見送りの人々は「起きよ、起きよ」と皆を起こして回った。小豆ともち米を急遽混ぜ合わせた「搗き入れ団子」を天皇の下に届けたという。それに起因するお祭りと郷土料理は今も残っている。
  • 戦前~戦中に手柄を立てた将兵に賜与された金鵄勲章は、神武天皇が護身用に用いた弓の先に金の光を放つトビが止まったことで敵軍を壊滅させた故事による。タバコのゴールデンバットも敵性語禁止の時に金鵄になった。

図像表現

日本神話に登場する国祖であるが、著名な寺社における神仏習合説に取り入れられる事はなく、そのため応神天皇八幡神)等と異なり仏像の影響を受けて成立した神像としても描写されなかった。

絵に描かれるようになったのは江戸時代末期から明治時代以降であり、木や金属などによる像も明治時代から作られるようになった。

幕末頃から、日本神話の神や人が和服や中国風でない「古代装束」を意識した服装で描かれるようになる。歌川国芳の神武天皇絵の時点で「和服っぽい装束+頭頂にみずら」という「古代風」の萌芽が見える。その後、神武天皇像にも当時の考古学的な情報の更新が反映されるようになった。

「古代装束」風神武天皇像は現代に至るまで野外に置かれる大型のものが圧倒的に多いが、冠稲荷神社(群馬県太田市細谷町)摂社の聖天宮日高社では社殿内の祭壇に対応した通常サイズの神倭磐余毘古神(カムヤマトイワレヒコノカミ)像がイザナギイザナミ夫妻の像と共に祀られている。


明治時代にも和服風の神武天皇絵(下記リストの「神武天皇御神像(図)」参照)が作成されている。

神武天皇が自身を象って刻んだという「大和國十市郡多社鎮座御木像」を元にした、と説明されるが、近代の民間信仰から生まれたものである(京都大学のネット公開論文、高木博志「近代における神話的古代の創造 ―畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武「聖蹟」―」参照)。


明治時代には「万世一系」の強調のため、明治天皇に似せた神武天皇像がデザインされた。


江戸時代末期の作例


明治時代以降の作例


神武天皇像のその後

「神武天皇御神像(図)」の解説にある大和國十市郡多社とは「多神社」とも呼ばれる「多坐弥志理都比古神社(現:奈良県磯城郡田原本町多)」の事だと思われるが、発行された「神武天皇御神像(図)」の元になったという神武天皇像が現在どうなっているかは不明。少なくとも同社の本殿と太安萬侶像と異なり自治体の文化財の指定は受けていない。


明治時代には神武天皇を模した大きな銅像が日本各地に造立され、「招魂」の儀礼を経て神像とされた。明治天皇に似せたルックスもあり、第二次世界大戦中の金属供出の対象を逃れ多くが現存している。戦後の社会の変化により現在は各地の公園等におけるいちモニュメントとなっている(「招魂」された神武天皇像…日本にも銅像を神のごとく崇めた時代があった|辻田真佐憲)。


明治時代の画家の木村武山が複数点描いた「武神」「神武天皇」画の中には陸軍大臣官邸に掛けられたもののほか、「聖像殿」において明治天皇像の銅像の奥側にかけられた例もある。現在「聖像殿」は外装が変更され、茨城県大洗町磯浜町の「幕末と明治の記念館」を構成するパビリオンとなっている。


「神武天皇のY染色体」?

現代における珍妙不可思議奇々怪々な主張の一つとして「現代の今上天皇に神武天皇のY染色体が受け継がれている。これは万世一系の証明である」というものがある。

天皇は男系でなければならない、とする主張の補強のために使用されるお話である。

Y染色体とはヒトにおける性染色体のもう一方であり、受胎後のホルモン作用により赤子はXXで女性、XYで男性の形で生まれてくる。

Y染色体が神武天皇と同一であるなら、少なくとも子孫という事にはなる。

が、そんな判断は不可能である。上述の通り、神武天皇は神話の世界の人物である。

『日本書紀』に墓の記述はあるが、中世には所在不明となっており、現在神武天皇陵とされている場所は江戸時代に国策で当てはめられたもの。

モデルとなる古代有力者がいたとしてもその墓の行方すら不明。

一応、高温多湿の気候の日本でも遺伝子を採取・確認できた例はある(日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析)。

しかし、仮に「遺伝子を採取できる古代人の遺体」があったとして、

遺体と直接紐付いた確証となる記録がなければ、「数多いる古代人の誰か」としか判断のしようがない。

現場に文字が記され、外部記録も残るようなファラオの事例でもなければ難しい。

ダメ元で調べようにも遺伝子採取する遺体確保のために神武天皇の墓とされる「畝傍山東北陵」の発掘する許可をとる必要がある。絶対に無理である。


トンデモでしかない話だが、与党議員にこの程度の与太に釣られる人間が出ている(衆議院の古屋圭司議員のツイート)。

彼は「ニュートン誌」で裏付けられたと主張したため、Newton誌発行元のニュートン・プレスに確認をとる人が複数現われ、案の定否定報告があがった(ツイートツイート)。


神武天皇が登場する作品

どの作品でも「偉大な英雄」「古代の英傑」としての風格があり、神ならぬ身でありながら懸命に乱世を駆け抜ける姿が描かれる。



  • 小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」「天皇論」など。如何にも武人と言った風格の英雄神で描かれ、迫力満点の御姿である。一方で小林氏が嫌う人物(マッカーサー元帥や自民党関係者など)を攻撃するための絵に描かれる場面も多い。

  • 石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の古典・古事記」。山幸彦の孫としてラストシーンに登場することで神話が神々から人間に主役交代する様を演出。昔の教科書や事典の挿絵に描かれた神武天皇を石ノ森流のイラストで描いている。

  • 手塚治虫氏の「火の鳥」。ニニギと言う名前で登場し、悪役。苛烈に主人公を追い込む非情さを見せるが、自分なりの正義を貫くアンチヒーローでもある。乗馬して戦うなど、かつて支持された騎馬民族渡来説を採用されている。

  • 出雲井晶氏の「教科書が教えない神武天皇」。作者自身が御東征の経路を調べ上げて地図や挿絵も自らが描き上げて上梓された。産経新聞社から刊行されている。


  • 池上永一氏の「シャングリ・ラ」。アニメ化もされたSF小説。主人公の北条國子は神武天皇の木乃伊(ミイラ)から作られたクローンという設定である。名前からわかる通り主人公の性別は女性であり、従って神武天皇の性別も女性である。霊体として國子の前に立ちはだかり、彼女の肉体を乗っ取ることで復活をもくろむ。アニメ化の際はさすがに自主規制があったのか卑弥呼に置き換えられた。

関連動画

ダヴィンチアカデミー


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天皇 皇室 歴史 日本史 古事記 日本書紀 建国者

日本神話日本史に登場する日本皇室の初代天皇

この御称号は奈良時代に撰進された漢風諡号で、和風諱号はカムヤマトイワレヒコノミコト(『古事記』では神倭伊波礼琵古命、『日本書紀』では神日本磐余彦尊)と申し上げる。 生前の御名を若御毛沼命(若々しい食物の主の意)。

生涯

紀元前721年、天照大神の4世子孫である鵜草葺不合命海神の娘玉依毘売の皇子として、ワカミケヌが日向(現在の宮崎)で生まれた。父君ウガヤフキアエズノミコトは、天孫邇邇芸命の御孫にあたる。


生誕地の九州日向で3人の兄弟と育ち、生まれながらにして賢く気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子になったという。

45歳になった甲寅の年、この地よりもっと相応しく豊かな東方の土地へ移住して都をかまえようと考えた。


瀬戸内海中国地方沿いに東征し、河内(現在の大阪)に上陸し、肝駒山を越えて大和(現在の奈良)の地へ向かおうとしたが、河内を支配していたナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗に遭い、熊野(現在の和歌山南紀)へ向かった。

この間に3人の兄が相次いで薨去し、全軍が倒れてしまうという危機を迎えたが、霊剣「韴霊」により全軍は目を覚まし、また天照大神が遣わした八咫烏の案内で無事に大和南部に入り、在地の人々を従えて、激戦を交えてナガスネヒコを倒し、ここに大和を平定した。


大物主神の娘であるヒメタタライスケヨリヒメ、または事代主神の娘ヒメタタライスズヒメを正妃に迎えて辛酉の年(西洋紀元前660年)2月11日に橿原宮で即位。名をカムヤマトイワレビコと改め、ハツクニシラススメラミコトと称する、神武天皇が誕生した。この時52歳。

この即位を以て日本の紀元元年とし、以前を神々の時代「神代」、即位以後を人間の時代「人代」と分けている。

その後、76年も天皇として統治。正妃との間には2人の皇子をもうけ、古事記によると137歳、日本書紀によると127歳で崩御したという。神武天皇陵は神武帝を祀る奈良県橿原市の橿原神宮のそばの畝傍山にある。


天皇の政治

アメノタネノミコトとアメノトミノミコトは祭祀を司って朝廷の政治に参加して、ミチノオミノミコトとウマシマヂノミコトは兵を率いて守衛を司った。また天皇が宮殿を橿原に営むと、上記の祭政や軍職と共に、正殿の建立・玉工・機織といった工業も世襲となった。

在位の間、神武天皇は心を政治に用い、国民はみな悦んだという。また神武天皇は農事を奨励して、アメノトミノミコトに麻・穀を総国・粟国に植えさせた。

神武天皇の崩御後は、8代にわたって父子で皇位が継承されていき、第10代崇神天皇に至ったが、その間に国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。


ハツクニシラス天皇(和風諡号の意味)

神武天皇は従来都のあった西方の日向筑紫を去って、東方の大和に遷った、大和朝廷第一代の天皇である。そのため日本書紀の神武天皇紀に、天皇を「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太しき立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇」と称えたとあり、かつこれは古伝承の語をそのままに記載した「古語」であると明記してある。

神武天皇の東遷による新日本の建設は、神話におけるニニギノミコトの降臨に対して「第二の天降」であると古代の日本人は考えたのであろう。


神武(漢風諡号の意味)

東洋の古典『易経』の繋辞伝の上に「神武而不殺」とある。すなわち「古の聰明睿智、神武にして殺さざる者か」(昔の、最もすぐれた知があり、計り知れない勇をそなえていて、人民の生命を尊重する仁を兼備した者であろう)という語が典拠で、つまり「神武天皇」とは「むやみやたらに殺すことが武ではない」という意味の、はじめて天下を治めた初代天皇の偉大さを賛した諡である。

また『書経』舜典にも「都帝德廣運、乃聖乃、乃乃文」とある。


橿原奠都の詔

紀元前660年の皇紀元年2月11日の神武天皇即位の詔。


我れ東を征ちしより、茲に、六年になりぬ。

皇天の威に頼りて凶徒戮に就きぬ。辺土未だ清らず。餘妖尚梗しと雖も、而も中洲の地、復風塵無し。

誠に、宜しく、皇都を恢き廊め、大壮を規り模るべし。

今、運は、此屯蒙に属ひ、民の心朴業なり。

巣に棲み、穴に住み、習俗惟れ常となれり。

それ、大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。

苟も、民に利あらば、何ぞ聖造たるを妨げん。

且つ、当に、山林を披き払ひ、宮室を経営りて、而して、恭みて宝位に臨み、以て元々を鎮むべし。


上(かみ)は、則(すなわ)ち、乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下(しも)は、則ち、皇孫(すめみま)、正(ただしき)を養ふ心を弘(ひろ)め、然る後、六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為す、亦可(よ)ならずや。

夫の畝傍山の東南、橿原の地を視れば、蓋し、国の墺区ならん、之に治るべし。


(口語訳)

上は天神の国をお授け下さつた御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。

その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩ひて一つの家とすることは、また良いことではないか。


(原文)

上則答乾靈授國之 下則弘皇孫養正之心

然後兼六合以開都 掩八紘而為宇 不亦可乎

觀夫畝傍山東南橿原地者 蓋國之墺區乎 可治之


(神武天皇即位前紀己未三月丁卯条)


史学的論争

実在性に対しては古くから論じられてきた。

まず根本的な問題として日本書紀や古事記は遙か後年の8世紀に成立した歴史書であって一次資料ではない。

また日本に文字が伝来したのは5世紀とされており文書で記録を残すことが不可能であった。


明治期の歴史学者那珂通世は1897年に記した『上世年紀考』において記述を批判し

讖緯説を採って神武紀元は「記紀編者の創作」と断じている。


また大正時代の1919年には津田左右吉が『古事記及び日本書紀の新研究』を発表。

厳密な史料批判を行い、神武天皇から仲哀天皇までの虚構性を明らかにしたが「皇室の尊厳を冒涜した」として1940年に出版法違反で起訴され1942年に有罪判決を受けた。


戦後には昭和天皇自ら人間宣言を行い、自ら神格を否定した。

また実弟で歴史学者であった三笠宮崇仁親王も「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」「神話と史実は切り離して研究されるべき」と公言。


こうした流れの中で弾圧から解き放たれ、自由な研究が行われるようになった。

中には邪馬台国論争と結び「九州にあった邪馬台国が畿内に移動もしくは分裂し、後の皇室になった」とするなどの見解もある。


ちなみに日本政府の神武天皇に関する公式見解は、日本神話の登場人物であり、実在云々については言及しない姿勢である。


欠史八代について

日本の皇室において神武天皇の以後八代にわたって名前以外の記録が残っていない天皇、いわゆる欠史八代の存在もあることから実在が疑われるのも当然である。

(なおキリスト教カトリック初期の教皇は一応なにを行った人物かという記録はある。)


それに対する反論もあるが、そもそも当時の日本は文書を残すどころか、文字が伝来していない。

実際、欠史八代以降もろくに記録が残ってない天皇が複数いる。


また稲荷山古墳が出土した際に発見された鉄剣の銘文には「意富比垝」と刻まれており、これを

八代の1人である孝元天皇の皇子であり、後に崇神天皇が派遣した四道将軍1人として北陸道へ派遣された大彦命に結びつける主張もあるが著しく年代がずれている。


皇統

  • 皇后:媛蹈韛五十鈴媛命(たしらかのひめみこ、事代主神の娘)

神八井耳命(かんやいみみのみこと)

・神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと、第2代・綏靖天皇

日子八井命(ひこやいのみこと)古事記のみ。

  • 妃:吾平津媛(あいらつひめ)

手研耳命(たぎしみみのみこと)

岐須美美命(きすみみのみこと)古事記のみ。


神武天皇にまつわる伝説

  • 記紀で兄との別離に差がある。古事記では次兄と三男は天皇が登場する前に海の国や常世へと旅立つが、日本書紀では海難で苦しんだ時に海へと飛び込んで「さひもちの神(ワニザメ)」になったと言われる。
  • 「海彦山彦」の悪役で有名な海幸彦(火照尊ないし火酢芹尊。天皇の祖父の兄であり、大伯父に当たる)と親交があり、海幸彦を祀った潮嶽神社には御東征前の天皇が行幸したことや、別れを惜しんだ現地の娘による神楽奉納の起源が語られている。
  • 日向市にある美々津には、天皇御一行をもてなした神話が現存する。旧暦8月1日の明け方に船出をすることになったため、見送りの人々は「起きよ、起きよ」と皆を起こして回った。小豆ともち米を急遽混ぜ合わせた「搗き入れ団子」を天皇の下に届けたという。それに起因するお祭りと郷土料理は今も残っている。
  • 戦前~戦中に手柄を立てた将兵に賜与された金鵄勲章は、神武天皇が護身用に用いた弓の先に金の光を放つトビが止まったことで敵軍を壊滅させた故事による。タバコのゴールデンバットも敵性語禁止の時に金鵄になった。

図像表現

日本神話に登場する国祖であるが、著名な寺社における神仏習合説に取り入れられる事はなく、そのため応神天皇八幡神)等と異なり仏像の影響を受けて成立した神像としても描写されなかった。

絵に描かれるようになったのは江戸時代末期から明治時代以降であり、木や金属などによる像も明治時代から作られるようになった。

幕末頃から、日本神話の神や人が和服や中国風でない「古代装束」を意識した服装で描かれるようになる。歌川国芳の神武天皇絵の時点で「和服っぽい装束+頭頂にみずら」という「古代風」の萌芽が見える。その後、神武天皇像にも当時の考古学的な情報の更新が反映されるようになった。

「古代装束」風神武天皇像は現代に至るまで野外に置かれる大型のものが圧倒的に多いが、冠稲荷神社(群馬県太田市細谷町)摂社の聖天宮日高社では社殿内の祭壇に対応した通常サイズの神倭磐余毘古神(カムヤマトイワレヒコノカミ)像がイザナギイザナミ夫妻の像と共に祀られている。


明治時代にも和服風の神武天皇絵(下記リストの「神武天皇御神像(図)」参照)が作成されている。

神武天皇が自身を象って刻んだという「大和國十市郡多社鎮座御木像」を元にした、と説明されるが、近代の民間信仰から生まれたものである(京都大学のネット公開論文、高木博志「近代における神話的古代の創造 ―畝傍山・神武陵・橿原神宮, 三位一体の神武「聖蹟」―」参照)。


明治時代には「万世一系」の強調のため、明治天皇に似せた神武天皇像がデザインされた。


江戸時代末期の作例


明治時代以降の作例


神武天皇像のその後

「神武天皇御神像(図)」の解説にある大和國十市郡多社とは「多神社」とも呼ばれる「多坐弥志理都比古神社(現:奈良県磯城郡田原本町多)」の事だと思われるが、発行された「神武天皇御神像(図)」の元になったという神武天皇像が現在どうなっているかは不明。少なくとも同社の本殿と太安萬侶像と異なり自治体の文化財の指定は受けていない。


明治時代には神武天皇を模した大きな銅像が日本各地に造立され、「招魂」の儀礼を経て神像とされた。明治天皇に似せたルックスもあり、第二次世界大戦中の金属供出の対象を逃れ多くが現存している。戦後の社会の変化により現在は各地の公園等におけるいちモニュメントとなっている(「招魂」された神武天皇像…日本にも銅像を神のごとく崇めた時代があった|辻田真佐憲)。


明治時代の画家の木村武山が複数点描いた「武神」「神武天皇」画の中には陸軍大臣官邸に掛けられたもののほか、「聖像殿」において明治天皇像の銅像の奥側にかけられた例もある。現在「聖像殿」は外装が変更され、茨城県大洗町磯浜町の「幕末と明治の記念館」を構成するパビリオンとなっている。


「神武天皇のY染色体」?

現代における珍妙不可思議奇々怪々な主張の一つとして「現代の今上天皇に神武天皇のY染色体が受け継がれている。これは万世一系の証明である」というものがある。

天皇は男系でなければならない、とする主張の補強のために使用されるお話である。

Y染色体とはヒトにおける性染色体のもう一方であり、受胎後のホルモン作用により赤子はXXで女性、XYで男性の形で生まれてくる。

Y染色体が神武天皇と同一であるなら、少なくとも子孫という事にはなる。

が、そんな判断は不可能である。上述の通り、神武天皇は神話の世界の人物である。

『日本書紀』に墓の記述はあるが、中世には所在不明となっており、現在神武天皇陵とされている場所は江戸時代に国策で当てはめられたもの。

モデルとなる古代有力者がいたとしてもその墓の行方すら不明。

一応、高温多湿の気候の日本でも遺伝子を採取・確認できた例はある(日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析)。

しかし、仮に「遺伝子を採取できる古代人の遺体」があったとして、

遺体と直接紐付いた確証となる記録がなければ、「数多いる古代人の誰か」としか判断のしようがない。

現場に文字が記され、外部記録も残るようなファラオの事例でもなければ難しい。

ダメ元で調べようにも遺伝子採取する遺体確保のために神武天皇の墓とされる「畝傍山東北陵」の発掘する許可をとる必要がある。絶対に無理である。


トンデモでしかない話だが、与党議員にこの程度の与太に釣られる人間が出ている(衆議院の古屋圭司議員のツイート)。

彼は「ニュートン誌」で裏付けられたと主張したため、Newton誌発行元のニュートン・プレスに確認をとる人が複数現われ、案の定否定報告があがった(ツイートツイート)。


神武天皇が登場する作品

どの作品でも「偉大な英雄」「古代の英傑」としての風格があり、神ならぬ身でありながら懸命に乱世を駆け抜ける姿が描かれる。



  • 小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」「天皇論」など。如何にも武人と言った風格の英雄神で描かれ、迫力満点の御姿である。一方で小林氏が嫌う人物(マッカーサー元帥や自民党関係者など)を攻撃するための絵に描かれる場面も多い。

  • 石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の古典・古事記」。山幸彦の孫としてラストシーンに登場することで神話が神々から人間に主役交代する様を演出。昔の教科書や事典の挿絵に描かれた神武天皇を石ノ森流のイラストで描いている。

  • 手塚治虫氏の「火の鳥」。ニニギと言う名前で登場し、悪役。苛烈に主人公を追い込む非情さを見せるが、自分なりの正義を貫くアンチヒーローでもある。乗馬して戦うなど、かつて支持された騎馬民族渡来説を採用されている。

  • 出雲井晶氏の「教科書が教えない神武天皇」。作者自身が御東征の経路を調べ上げて地図や挿絵も自らが描き上げて上梓された。産経新聞社から刊行されている。


  • 池上永一氏の「シャングリ・ラ」。アニメ化もされたSF小説。主人公の北条國子は神武天皇の木乃伊(ミイラ)から作られたクローンという設定である。名前からわかる通り主人公の性別は女性であり、従って神武天皇の性別も女性である。霊体として國子の前に立ちはだかり、彼女の肉体を乗っ取ることで復活をもくろむ。アニメ化の際はさすがに自主規制があったのか卑弥呼に置き換えられた。

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