概要
日本の歴代の天皇の中において、最初の天皇とされるカムヤマトイワレヒコノミコトこと神武天皇のことである。
『古事記』における記述
『古事記』の記述によれば、神武天皇は紀元前711年に生まれ、紀元前585年に崩御したとされている。もちろん。これだけの記述で天皇の実在を証明するのは不可能である。
要点を簡単に説明すれば、『古事記』は上・中・下の3巻からなっており、そのうち上巻は神代の国から降臨したアマテラスオオミカミの孫・ニニギノミコトが日本を支配した物語であり、ニニギノミコトの子孫である神武天皇は中巻から登場、天皇の時代が展開されていくというのである。
国の成り立ちの物語としてはおもしろいが、神武天皇が実在したとされる最古の文書は『古事記』と『日本書紀』のほかになく、しかも天皇が生きたとされる時代は両書が編纂された奈良時代からさらに1400年もさかのぼらなければならない。この間に書かれた文書にも「神武天皇」の名は記されていないことから、現在の考古学において「神武天皇」の存在は前提とされていない。
また、中国の歴史書『魏志倭人伝』によれば、大規模な内乱を鎮めた「邪馬台国」の女王・卑弥呼が魏の都に使者を送り誼を通じたとある。この歴史書には当時(3世紀)は「倭国(日本)」には小国が林立して争いをくりかえしていたとも記されている。この小国のなかに「大和朝廷」のもととなった国が含まれていたとしてもおかしくはないが推論の域を出ず、明らかに『古事記』にある日本統一の物語と異なっている。
そこで現在の古代史研究者の間では「神武天皇」の神話は弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて記紀編纂時に創作されたもの(後述)とする「モデル論」が盛んになっている。
大和朝廷
大和朝廷の成立時期ははっきりしない。
5世紀半には一定の勢力となっているが、長く各地の豪族と抗争をくりかえしており、支配地も近畿地方のごく狭い地域に限られていたと思われる(平安時代以降も東北に蝦夷、九州に熊襲・隼人の勢力が残っていることからも、いかに大和朝廷の支配体制が弱かったことがわかる)。
「天皇」
この称号を最初に使ったのは第40代・天武天皇(大海人皇子からとされており、それまでの称号は「大王(おおきみ)」であった。壬申の乱(672年)において大海人皇子は甥の大友皇子(天智天皇の子、明治3年(1870年)に弘文天皇と追贈)と「王位」を争い、勝者となって「王位」を継ぐ。
即位後、大王は歴史書の編纂を命じ、完成したのが『古事記』と『日本書紀』である。
(もとになった物語はあったかもしれないが)、「神武天皇」の名はここで初めて出、「天皇」号も天武・持統朝に発祥したとの説が有力となっている。
そのため、天武天皇は先述の「モデル論」において、崇神天皇・応神天皇・継体天皇とならんで「神武天皇」の有力な「モデル」候補となっている。