概要
古事記・日本書紀に於いて、神武東征の場面で、大和で東征に抵抗した豪族の首領として描かれている人物。
大和国の鳥見の白庭山に住む天津神・饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕えており、自身の妹を嫁がせていた。
神話では、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)らの軍を孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、この戦いで神倭伊波礼毘古命の兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は矢に当たって負傷し、傷を伊勢の海で洗い療養したが、甲斐無く後に死亡している。
後に再起した皇軍と再び戦うことになるが、この際飛来した金鵄が神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。
最期
『日本書紀』によると、饒速日命の仲裁により、自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、長髄彦はなお従わず、抗戦姿勢を貫いたため、饒速日命の手によって殺されたとされる。
(『古事記』では特に討伐の場面もなく、邇芸速日命が神武天皇に服属したとされている)
別名・表記ゆれ
『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。
(ウィキペディアより)