八紘一宇
はっこういちう
日本の建国者である神倭伊波礼琵古命が、大和を平定し土着の氏族の降伏を受け入れて、橿原神宮で初代天皇である神武天皇として即位した際の即位式において、神武天皇は
「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇となさん。また可からずや」
と述べている。
「六合」とは『国のうち』、「八紘」とは『天の下』、「宇」は『家の屋根』を意味しており、ここから『八紘一宇』という言葉が生まれた。
『天の下』とは「世界」という意味とされるが、これは当時の時代の価値観おいて、「世界」とは「国」のことであり、戦国時代などで言われる『天下統一』の『天下』も同様の意味である。
よって八紘一宇の言葉の意味は『国を一つの家とする』という意味になる。
これは神武天皇の即位式に集まった、もろもろの氏族や土着の部族に対し、
「これからは国じゅう一軒の家のように仲良くしていこう」
という願いを述べられたものである。
言うなれば長い戦争のあとの平和宣言であり、同時に日本の建国の精神を示したものであるが、第二次世界大戦中は「全世界を自国と同じ価値観の元に統一する」と解釈がなされ、大東亜共栄圏とともに戦争の大義名分として使われ(後付け)されたため、イメージが非常に悪い言葉になっている。
戦時中、日本は同盟関係にあったドイツから、ユダヤ人迫害政策への協力を再三申し入れられていたが、日本側はこれを拒否し続け、安江仙弘大佐らの働きかけにより当時の日本政府はこの問題を内閣で最も重要な会議であった五相会議にて議論し、その中で当時の陸軍大臣だった板垣征四郎大臣が、
「神武天皇がこの国を開かれたとき、天皇は“八紘を掩いて宇となさん”と仰せられた。ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反する」
との発言をし、これによって日本はドイツの協力要請を斥け、世界で唯一ユダヤ人を差別しない国策をとり、ユダヤ人を人道主義の下に保護することを決定した。
こうした経緯から、八紘一宇の精神の下、ユダヤ人の保護が行われ、それによる多くの逸話が存在している。
ドイツからの迫害からソ連に逃げ込んだものの、労働力として期待できないと拒否されたことからオートポール駅に溢れかえっていたユダヤ人たちを、当時の満州国ハルピンの特務機関長だった樋口季一郎が救援列車を手配してハルピンに受け入れ、彼らに医療介護を施し日本軍が上海の日本人居留区に置いた無国籍難民隔離区で保護している。
元陸軍将校で外交官の杉原千畝による有名な『命のビザ』の発効が始まったのと同時期には、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなど12以上の都市の日本領事館も、ユダヤ人へのビザ発行を開始している。
また、当時は関東軍司令官であった東條英機や、満州鉄道総裁の松岡洋右も協力し、無賃でユダヤ人の亡命を援助していた。
もっともユダヤ人自治区計画などは「同盟国の関係が悪くなる」という理由で白紙化しており、ユダヤ人の亡命支援も政府や軍の一致した方針というよりは、個々人の良心から私的に行われたものが多数をしめる。
さらには上記の杉原千畝のように公的権力を大々的に使って亡命支援したら、更迭されたりするケースも珍しくなく、あくまでドイツとの友好関係のほうが重視されたので、公的には「ドイツのユダ差別政策に協力しないし、日本の勢力圏までくれば、あえて差別したりはしない」という消極的なスタンスであった。
ただし、この上海ゲットー (ユダヤ人居住区を作るにあたって、既存の日本語で特に適当なのがないので、アメリカ倒すまでの暫定措置だし、取り敢えず既存の外来語使っちまえという割といつものパターン) を、米軍が爆撃しやがったのも事実である。
この一連の事はアメリカの識者にも早いうちから知られており、ロバート・A・ハインラインの名著『高い城の男』でも、日本のユダヤ保護方針と戦後のナチス勢力圏から日本勢力圏へのユダヤ人流出が描かれている。