基礎データ
その他:政党解散委員会
:南満州鉄道株式会社責任者/総裁
概要
1893年に、アメリカ合衆国に留学のために渡米し、オレゴン大学を卒業。このため、英語が堪能であり、自他ともに認める国際派として有名だった。
満州事変
満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席する。その際,イギリスから「満州鉄道の利権だけを完全に独占した上で陸軍引き上げすべき」と言う仲裁案を出され、松岡もそれに賛成だったが、当時の上司でもある内田康哉の指令により、仲裁案反対姿勢を取る熱弁を振るったが、結局満州国が否認されたため退場した。
それによって全権を辞して政界引退も覚悟していたが、日本では歓喜の声があがり、松岡はうつ病気味となってしまう(似た例にポーツマス条約で賠償金が払われず怒った国民が日比谷焼打事件を起こした小村外相の話がある)。
満州鉄道
1935年、一度辞退していた満鉄(南満州鉄道株式会社)の総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進める。一方で,樋口季一郎少佐によるユダヤ人救済を黙認した(なお,この件によるナチスの反発は東條英機が一蹴したそう)。
その後の外交
1940年、第2次近衛文麿内閣の外相となり、ナチスドイツやイタリア王国と日独伊三国同盟を結んだ。
…しかし実際は近衛文麿の説得などもあっての三国同盟の締結で,実際は「ナチスほど信用のおけるものは無い」と松岡本人が語っていたと言う。
1941年、松岡の強い要望からソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンとの対談が実現。その際に日ソ中立条約を締結する。しかしこれ以前にイギリスのウィンストン・チャーチル首相から「ソ連を信用すべきでは無い」と手紙を貰っていたが、松岡は無視している(この結果、ソ連に裏切られ、北海道自衛を固めることとなった)。しかし、うつ病が治らなかったことや自意識過剰な性格から、外相の座を外された。
同年に日米間で開戦すると、号泣して国民に詫びていたという。
その最期
敗戦後、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯に指定され、1946年、獄中にて結核のため死亡した。
評価
戦前は民衆からの人気が高かったものの、戦後では近衛文麿や東條英機などと並ぶ太平洋戦争の重大な責任者として、厳しく批判されている。
また、松岡は自意識過剰な性格だったようで、この点が昭和天皇や米内光政などから批判されている。
ちなみに、近衛文麿首相に対して、松岡を罷免するように助言したのも昭和天皇である。
余談
- 松岡は吉田茂の2年先輩の外交官であり、友人関係があった。戦後、松岡が結核で衰弱しているという話を聞いた際、吉田は少ない物資の中からミルクを送ったとされる。
- 岸信介や佐藤栄作、安倍晋三とは親戚関係にある。
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