満州事変
満州事変
満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席する。その際,イギリスから「満州鉄道の利権だけを完全に独占した上で陸軍引き上げすべき」と言う仲裁案を出され、松岡もそれに賛成だったが、当時の上司でもある内田康哉の指令により、仲裁案反対姿勢を取る熱弁を振るったが、結局満州国が否認されたため退場した。
それによって全権を辞して政界引退も覚悟していたが、日本では歓喜の声があがり、松岡はうつ病気味となってしまう(似た例にポーツマス条約で賠償金が払われず怒った国民が日比谷焼打事件を起こした小村外相の話がある)。
満州鉄道
満州鉄道
1935年、一度辞退していた満鉄(南満州鉄道株式会社)の総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進める。一方で,樋口季一郎少佐によるユダヤ人救済を黙認した(なお,この件によるナチスの反発は東條英機が一蹴したそう)。
その後の外交
その後の外交
1940年、第2次近衛文麿内閣の外相となり、ナチスドイツやイタリア王国と日独伊三国同盟を結んだ。
…しかし実際は近衛文麿の説得などもあっての三国同盟の締結で,実際は「ナチスほど信用のおけるものは無い」と松岡本人が語っていたと言う。
1941年、松岡の強い要望からソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンとの対談が実現。その際に日ソ中立条約を締結する。しかしこれ以前にイギリスのウィンストン・チャーチル首相から「ソ連を信用すべきでは無い」と手紙を貰っていたが、松岡は無視している(この結果、ソ連に裏切られ、北海道自衛を固めることとなった)。しかし、うつ病が治らなかったことや自意識過剰な性格から、外相の座を外された。
同年に日米間で開戦すると、号泣して国民に詫びていたという。
評価
評価
戦前は民衆からの人気が高かったものの、戦後では近衛文麿や東條英機などと並ぶ太平洋戦争の重大な責任者として、厳しく批判されている。
また、松岡は自意識過剰な性格だったようで、この点が昭和天皇や米内光政などから批判されている。
ちなみに、近衛文麿首相に対して、松岡を罷免するように助言したのも昭和天皇である。
関連記事
親記事
子記事
コメント
pixivに投稿されたイラスト
すべて見るpixivに投稿された小説
- 通史日本史
第八巻 第一章 世界恐慌と満州事変
本作品は、シナリオ完成まで行きながら没になった、児童向け歴史マンガ『通史日本史』(全十巻予定、シナリオは全八巻)の原作です。旧石器時代から平成までの日本史全てを扱います。 マンガ原作(シナリオ)をそのままUPしていますので、読みにくい箇所もあるとは思いますが、ご容赦ください。3,911文字pixiv小説作品