概要
1905年、日露戦争において日本軍は東郷平八郎率いる日本海軍が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した事をきっかけに当時のセオドア・ルーズベルト米大統領仲介の元、ポーツマスにて講和条約が結ばれる事になった。
大国ロシアを相手に日本は戦争を継続する余力は存在しなかったが、国内では情報統制によって連戦連勝の報道がなされ、戦争の費用集めとして多額の増税や国債が発行されていた。
多くの国民がロシアに勝てれば多額の賠償金が取れると信じ切っていた。だがロシア側はロシア国内は全く日本に攻撃されていないことを根拠に賠償金の支払いを拒否。当時の小村寿太郎外交は交渉決裂を恐れ、樺太南半分の割譲と韓国の指導権優位といった妥協案でポーツマス条約に調印した。
この条約に長きにわたって戦費拡大の重税に苦しめられてきた国民は納得いかず、9月3日に大阪市公会堂で弱腰な政府を批判、講和条約反対と戦争の継続を訴える集会が開催。
そして9月5日に東京都麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公園にて右翼や野党議員が集合をかけて講和条約に反対する国民を集め、決起集会を開催しようとしていた。
参加者のべ3万人。政府はこれを警戒し警官350名を待機させ小競り合いこそあったものの大きな混乱は起こらず、条約反対と内閣批判を叫んだだけで終了した。
ところが一部の国民が暴徒化し、二重橋に進行。出動した警官ともみあいになった末、警察署や派出所を襲撃。日比谷公園周辺の官邸や新聞社、果てはアメリカ大使館や教会に火を放つほどの大事件となった。
これによって東京は無政府状態となり、翌9月6日に政府は戒厳令を施行。近衛師団をも投入しようやく騒動は終結。死者17名、負傷者500名以上、検挙者2000名以上もの大惨事となった。
その後
事件終息後も講和条約反対大会が開かれ、神戸や横浜でも暴動が発生。この結果翌年1月に第一次桂内閣が総辞職。第一次西園寺内閣は発足した。
影響
アメリカ大使館や教会を襲ったことでアメリカの反日感情が湧き、黄禍論が流行りサンフランシスコで反日暴動、排日移民法などの反日行動が起こり、太平洋戦争に続いていくという説もある。