概要
1889年(明治22年)7月18日東京生まれ。祖父は「維新の三傑」と称された長州藩士木戸孝允。学習院高等科、京都帝国大学を経て農商務省(のちに分省して商工省所属。現在の経済産業省)に入省する。1917年(大正6年)に貴族院議員だった父・孝正が逝去したため、侯爵を襲爵のうえ貴族院議員となった。
1930年に学習院時代の友人だった近衛文麿の推薦により内大臣府秘書官長に就任。1936年に発生した二・二六事件の後処理を事件の処理を昭和天皇に認められ、以降中央政府に関与することとなる。その後文部大臣、厚生大臣、内務大臣を歴任し、1940年6月1日の近衛内閣で内大臣に就任。この時50歳であったが、内大臣としては異例の若さであった。
このように出世街道をひた走った木戸であったが、内大臣になってからは親独反米路線を推進し、昭和天皇が渋っていた日独伊三国同盟を松岡洋右と共に推進して締結させ、また近衛が内閣総辞職をすると近衛は皇族である東久邇宮稔彦王を後継者としたが、昭和天皇は「皇族首相で対米開戦はまずい」と渋ったことから意を汲んだ木戸は陸軍大臣だった東條英機を推挙し、一部反対意見はあったが昭和天皇から信任されており他に候補がいないことから東條内閣が成立。その2か月後に真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した。
戦争突入後当初は優勢だった日本であったが、次第に劣勢になっていくと木戸は東條を見限り重光葵と共に終戦工作に奔走する。首相に就任した鈴木貫太郎ら海軍の説得は成功したが、終戦前日の1945年8月14日に陸軍強硬派により宮城事件を引き起こす要因を作ってしまった(この事件で木戸の自宅が焼き討ちに遭っている)。
終戦後木戸はA級戦犯として逮捕され、東京裁判で裁かれることになったがここで自身の日記(木戸日記)を提出し、さらに宣誓供述で政府や軍部の内情を暴露して昭和天皇の戦争責任を回避するため奔走した。しかしイギリス代表検事から「天皇の秘書である内大臣の立場であるなら親英米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳では」と詰問され、木戸日記や木戸の証言は昭和天皇の訴追回避に結びつかず、東條の証言により回避されることとなった。判決は終身刑であったが、判事11人中5人が死刑賛成であり、あと1人が賛成していれば死刑を出されていたというきわどいものであった。
1955年に健康上の理由で仮釈放され、1977年(昭和52年)4月6日に87歳で没した。
評価
戦前は開戦を煽動する言動とっておきながら、敗戦濃厚になると掌を返して終戦工作に走ったあげく東京裁判では「軍国主義者と戦い政治的には非力であった」「戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました」と述べたことから他のA級戦犯者から特に嫌われていた。裁判所と拘置所を往復するバスの中で同乗していた武藤章や佐藤賢了(ともに陸軍中将)から「こんな嘘吐き野郎はいない!」「国民の戦意を破砕する云々とはなんという事をいう奴だ、この大馬鹿野郎が!」と罵られ、木戸はたまらず手持ちの新聞紙で顔を覆い隠したとされている。
また、廣田弘毅が裁判では沈黙を貫いた結果賛成6人の1票差で死刑判決を受けた際は木戸と比較されることがあり、もし廣田が沈黙を破って軍部の傀儡だったことを主張していれば廣田の代わりに木戸が死刑になったのではとされている(連合国側から「文官からも死刑にしたい」との意向があり、誰か1人でも生贄にならなければいけなかったとされる)。なお、木戸は廣田の沈黙に対して「立派だがつまらないものよ」と評している。
ちなみに木戸は東條を首相に推挙した理由として「開戦を主張する陸軍を抑えるには東條しかなかった」「東條は昭和天皇に対する忠誠心が強いので、天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」とする一方で、「陸軍の強硬派が言うことを聞かないので東條あたりに首相をさせて失敗すれば懲りるだろう」という木戸が状況を悪化させておきながら陸軍に責任を押し付ける発言をしていたとも言われている。