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東久邇宮稔彦王

ひがしくにのみやなるひこおう

日本の旧皇族、軍人、内閣総理大臣である。(メイン画像の緑色のネクタイの人物)
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概要編集

旧皇族であり、皇族を離れた後は東久邇稔彦と名乗った。陸軍軍人でも有り、最終階級は陸軍大将。第43代内閣総理大臣でもある。

皇族時代編集

1887年12月3日、近代化前最後の天皇である孝明天皇の側近だった皇族久邇宮朝彦王の九男として京都で生まれた。兄には昭和天皇の妃香淳皇后の父親である久邇宮邦彦王がいる。


1906年、明治天皇の九女を妃に迎えるために新しい宮家を創設し東久邇宮稔彦王を名乗るようになる。その後、陸軍士官学校に入校し陸軍軍人としてのキャリアをスタートし、幹部教育を受けるために陸軍大学校も卒業した。


1920年、より教養と経験を深める目的でフランスの陸軍士官学校に留学する。この留学で東久邇宮はフランスの風土にすっかり感化されてしまい、自由主義的思想を持つ当時としては極めて稀な皇族となった。また、留学の5年前に先記の皇女と結婚したにもかかわらず現地で恋人を作り、自動車を乗り回すなど、留学の実態はバカンス同然であった。

そのため、かなり居心地が良かったのか、大正天皇の体調不良の知らせを受けても帰国しようとせず、日本にいた妻が抗議の手紙を書く程であった。結果、大正天皇が崩御した1927年にようやく帰国し、本格的に軍務に携わるようになる。また、その傍らでフランスで実感した欧米の技術力の高さに叶う人材を日本でも育てるべく、後に千葉工業大学となる学校を創設している。


帰国後は近衛兵の連隊長・旅団長・師団長などを歴任し1937年には陸軍の航空分野を統括する陸軍航空本部長に就任した。日中戦争が本格化すると第二軍司令官として中国北部(華北地域)に赴任し、そこでの武功で大将に昇格した。ただ、東久邇宮自身はフランス留学で得た自由主義的思想から対中戦争の拡大や当時陸軍でも噴出していた対米開戦には断固として反対の立場を採っていた。


このため、当時の東久邇宮は穏健派の陸軍軍人から暴走する強硬派の歯止め役として期待され、太平洋戦争開戦直前の1941年には近衛文麿の後任として首相候補に上がった。しかし、皇室首相の下で開戦した場合に皇室や天皇に対する国民からの不信が発生する事を恐れた木戸幸一内大臣から反対に遭い首相就任は叶わなかった。だが、それでも東久邇宮は開戦回避に向け人脈を使って動き、蒋介石と当時の首相東條英機の会談にまで漕ぎ着ける見通しを立てたが、東條本人にそれを拒否されてしまったため結果的に開戦は回避できなかった。その後、開戦後も終戦工作に奔走するが、それが陸軍の強硬派の目に止まってしまったようで、終戦間近の1945年に徹底抗戦派の将兵によるクーデター未遂事件(宮城事件)では自宅を焼き討ちされる憂き目に遭っている。


ポツダム宣言が受諾されようとしていた1945年8月、敗戦による混乱の発生を恐れた木戸を始めとする天皇の側近達は皇室の中でも首相が務まる逸材として東久邇宮に白羽の矢を立て、開戦時の対応とは逆に今度は木戸が東久邇宮に首相就任を打診するようになった。当初、東久邇宮は政治の事はわからないとして固辞していたが、昭和天皇の疲弊した姿に考えを改め、近衛文麿を副総理格(相談役)に、陸海大臣には各軍からそれぞれ穏健派として名の通った下村定陸軍大将・米内光政海軍大将を迎え、第43代内閣総理大臣の座に就いた。


総理就任時の映像


首相になった東久邇宮は、就任してすぐの記者会見で戦争責任は政治・軍・国民全てに問題があったからだとする通称「一億総懺悔論」を唱え、無謀な戦争を行った事への猛省を全国民に呼びかけた。ただ、連合国側は軍部や政府の上層部に戦争責任を負わせて処罰する事で戦争の精算を図るつもりであったため、後にやって来たGHQによりこの東久邇宮の発言は統制の対象となった。


次に、戦地に皇族を派遣して現地の日本軍に武装解除命令を行き渡らせる事に努めた。その結果、ポツダム宣言受諾から1ヶ月もしない9月2日には重光葵外務大臣により東京で降伏文書への調印が行われ、戦争は正式な終焉を迎えた。戦争の終戦手続きが一通り終了すると、東久邇宮は次に日本再建に関する取り組みを打ち出し始め、自身の自由主義的思想を活かし『言論・集会・結社の自由容認』『選挙法改正による自由選挙』『政治犯の釈放』などを発表した。


この内『政治犯の釈放』に関しては内務省の反対により実現しなかったが、その他の事項については後々新憲法などで実現している。だが、皇族内閣の終焉は突如としてやって来た。降伏文書へ調印してしばらくした頃、モーニングコート姿の昭和天皇が略装の軍服を着たGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーと並んで写っている写真が報道され、当時まだ現人神として神格化されていた昭和天皇が略装のマッカーサーと並んでいる写真を好ましく思わなかった政府は東久邇宮の了承を受け写真報道の規制をかけようとした。だが、これをGHQが拒否し、更には内務省官僚や警察組織の幹部達4000人あまりの免職や治安維持法・治安警察法・特別高等警察の廃止などを含む指令を内閣に突きつけてきた。これには欧米的思想を持つ東久邇宮もさすがに容認する事ができず、指令への抗議と敗戦処理に一定の目処が立った事を理由にわずか2ヶ月で総辞職してしまった。


退任・皇籍離脱編集

総辞職から約1ヶ月後、敗戦の責任を取り皇族の身分から離れる事を表明し、約2年後の1947年に皇籍から離れ名を東久邇稔彦と改めた。皇籍離脱後は、新宿の闇市で商店を経営する商い人に転身したが、戦後混乱期にありとあらゆる非合法がまかり通っていた闇市で生真面目な皇族出身者が商いを行えるはずもなく、経営は長続きしなかった。


その後は1948年に世界統一国家樹立を目指すNGO団体を著名人らと共同創設し、更に1950年には自己反省の結果として仏教禅宗新興宗教「ひがしくに教」を設立した。しかし、後者に関しては東京都から宗教法人認定を得られず、それどころか元皇室による宗教団体設立により政府から目を付けられ、法務局から名称使用禁止勧告をされてしまい事実上の解散に追い込まれてしまった。

また、宗教団体問題から約30年後の1979年には、見ず知らずの女が勝手に自分の籍に妻として入っていた事がわかり民事訴訟にまで発展するという騒動を引き起こすなど、戦後はワイドショー的なネタで世間を騒がせた。


1990年1月10日、102歳という長寿をまっとうしてこの世を去った。この102歳という長命は、政府首班経験者としては最高齢としてギネスブックにも掲載されている。


関連項目編集

皇族 内閣総理大臣 昭和時代の内閣総理大臣 第二次世界大戦 太平洋戦争

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